撮影日:2005年10月18日、2006年4月12日 以下の写真は、クリックすると大きいサイズになります。 |
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01・二の丸 |
02・二の丸 |
03・三の丸南門 |
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04・二の丸南門 |
05・二の丸南門 |
06・廊下橋門石垣 |
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07・廊下橋 |
08・月見櫓 |
09・本丸 |
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10・本丸 |
11・干飯櫓 |
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12・西出丸 |
13・西出丸 |
14・西出丸 |
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15・本丸 |
16・西出丸 |
17・搦手門 |
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18・鐘撞堂下三角堀 |
19・北出丸西門 |
20・追手門 |
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21・本丸太鼓門 |
23・御三階櫓 |
22・本丸太鼓門 |
24・本丸、天守 |
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25・天守 |
26・天守 |
27・天守、走長屋、干飯櫓 |
28・鉄門、走長屋、天守 |
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29・走長屋、干飯櫓 |
30・走長屋、鉄門 |
31・本丸太鼓門 |
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32・本丸太鼓門 |
33・天寧寺町土塁 |
34・天寧寺町土塁 |
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35・甲賀町口郭門 |
36・甲賀町口郭門 |
37・甲賀町口郭門 |
38・縄張図 |
39・御三階櫓 |
40・御三階櫓 |
☆名称(別称) |
会津若松城 (若松城、鶴ヶ城、黒川城) |
☆所在地 |
福島県会津若松市追手町 |
☆地図 |
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☆創築者、創築時期 (改修者、改修時期) |
至徳元年(1384年)、葦名直盛 創築(東黒川館) 天文12年(1543年)、葦名盛氏 修築(黒川城と改称) 文禄元年〜2年(1592〜93年)、蒲生氏郷 改築(若松城と改称) 慶長年間(1596〜1615年)、加藤明成 改築 |
☆城主 |
葦名氏 - 伊達氏 - 蒲生氏 - 上杉氏 - 蒲生氏 - 加藤氏 - 松平(保科)氏 |
☆遺構・復元物 |
本丸、二の丸、三の丸、北出丸、西出丸、石塁、土塁、堀、茶室麟閣(本丸内に移築)などが現存しています。また、市内の阿弥陀寺に御三階櫓が移築現存されています。そのほか天守(外観のみ)、干飯櫓、走長屋などが復元されています。 |
☆一言歴史 |
会津若松城は会津守護の葦名直盛が東黒川館を居館として築いたのが始まりです。その後戦国時代に入ると葦名氏も戦国大名化します。 天文12年(1543年)には葦名盛氏が従来の居館を改築し黒川城と改めます。 およそ200年もの間会津地方を治めた葦名氏ですが、天正8年(1580年)に葦名盛氏が死去すると、衰退していきます。 機を見ていた出羽米沢城の伊達政宗が、天正17年(1589年)摺上原の戦いで葦名義広を破り、黒川城を奪います。政宗はさらに南下し勢力を広げようとしますが、豊臣秀吉が既に統一まであと一歩のところまで来ており、各地で戦国大名が争っている世の中ではなくなっていました。 小田原に遅参した政宗は、会津四郡他を召し上げられて、黒川城には蒲生氏郷が松阪から入封しました。 氏郷は文禄元年から翌文禄2年(1592〜93年)にかけて城を大改築し、一説には七重(!)の天守、外郭をつくり、若松城と改称しました。また、氏郷は松阪から大勢の職人を連れてきて城下町も発展したそうです。 氏郷は40歳の若さで世を去ってしまい、子の秀行が跡を継ぎますが、若い秀行に会津の領地は統治不可能と判断され、慶長3年(1598年)には宇都宮へ転封となってしまいます。
代わって若松城に入封したのは上杉景勝で、越後春日山城より120万石の俸禄で入り城下を整備し始めます。慶長5年(1600年)、景勝は南東にある小田山が若松城に近く、大砲による攻撃には太刀打ちできないと判断し、神指原に新しく城を建設し始めます。昼夜を問わず8万人とも12万人ともいわれる人員を投じて、本丸と二の丸の石垣や土塁、水堀が約3ヶ月で完成します。 しかし越後の堀秀治、直竒らの讒言により、徳川家康による上杉征伐のきっかけを与えてしまい、連動していたかのように石田三成が佐和山城で挙兵し、関ヶ原の戦いに発展していきます。 三成の挙兵によって徳川家康率いる東軍は関ヶ原へと進路を変え、直江兼続が指揮を取る上杉軍は最上義光、伊達政宗連合軍と奮戦するものの、三成率いる西軍があっけなく敗退したため、戦後出羽米沢に転封となってしまいます。 上杉氏転封後は再び蒲生秀行が入りますが、忠郷の時子がなく断絶し、伊予松山より加藤嘉明が入ります。子の明成の時に、現在見られる五重天守に改築され、北出丸、西出丸もこの時に築かれました。そして上杉景勝が築城途中で破却した神指城の石垣を若松城の改築に使用したともいわれています。 明成改易後は徳川家光の異母弟保科正之が出羽山形城より入り、六男正容が藩主となった時に松平姓を与えられ、徳川御三家の次に位置する藩となります。しかしこの位置づけが奥羽越諸藩を巻き込んだ幕末の悲劇につながってしまうのでした。
→幕末の白虎隊に関する歴史は飯盛山のページをご覧ください。 |
☆私的見所 |
自宅からは2時間弱で来れるので、一年に何度もここを訪れてしまう(2〜3ヶ月に1回くらい)ほどお気に入りの城になりつつあります。 私は蒲生氏郷時代に築かれた野面積みの天守台石垣が好きです。加藤明成が修築するまでは金箔瓦の一回り大きな七重天守であったことを想像しながら、本丸で一服( ´ー`)y―~~するのが密かな楽しみだったりします。 そして、会津若松城では野面積み、打込接ぎ、切込接ぎと3種類の石垣を見ることができ、そのあたりも楽しみの一つですね。 時間のある方は御薬園や白虎隊自刃の飯盛山、武家屋敷などもどうぞ。御三階櫓は市内七日町の阿弥陀寺に現存しています(写真39と40)。また、関ヶ原の戦いのきっかけとなり、完成を見ずに破却された神指城も市内神指町にございます。 なお、このサイトでは、一貫して「会津若松城」と表記していますが、通常は「鶴ヶ城」と呼ぶ方が一般的だと思います。 |
※関連・近隣史跡など