猪苗代城 (亀ヶ城)

撮影日2004年11月13日

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01・大手枡形虎口

02・見取図

03・大手枡形虎口

04・大手枡形虎口

05・三本杉井戸

06・二の郭土塁

07・胴丸付近門跡

08・二の郭櫓門跡

09・二の郭

10・井戸門跡

11・本丸

12・四ツ門跡

13・二の郭櫓門跡

14・南帯郭土塁

15・南帯郭

16・土塁と空堀

17・南帯郭土塁

18・二の郭西側

19・土塁と空堀

20・土塁

21・北帯郭

22・角櫓跡

23・北帯郭土塁

24・北帯郭

 

☆名称(別称)

猪苗代城 (亀ヶ城)

☆所在地

福島県耶麻郡猪苗代町古城跡

☆地図

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☆創築者、創築時期 

   (改修者、改修時期)

建久2年(1191年、佐原経連) 創築

改修時期不明(蒲生氏、上杉氏、加藤氏支城の頃か?)

☆城主

佐原氏(葦名氏、のち猪苗代氏に改姓) - 伊達氏 - 蒲生氏 - 上杉氏(城代水原氏) - 蒲生氏 - 加藤氏 - 松平(保科)氏

☆遺構・復元物

本丸、二の丸、帯郭、石塁、土塁、空堀などが現存。町史跡。

☆一言歴史

 源頼朝から奥州征伐の功により会津4郡を拝領した佐原義連が長男の経連に猪苗代の地を与え、猪苗代氏と称しました。その経連が磐梯山の東南麓に築いたのが猪苗代城です。

 

 猪苗代城が有名なのは天正17年(1589年)に奥州の覇権をかけて行われた摺上原の戦いの時でしょう。14代目の猪苗代城主盛国が宗家葦名氏を突如裏切り、伊達政宗の軍勢を猪苗代城に受け入れます。見方の裏切りにより葦名氏は滅び、葦名氏の居城会津黒川城には伊達政宗が入り、猪苗代城には城代が置かれた思われます。

 

 その後、豊臣秀吉の奥州仕置によって政宗は陸奥岩出山城へ転封となり、猪苗代氏も伊達氏に従い14代にわたって猪苗代城主であった猪苗代氏はこの時に終わってしまいました。会津黒川城には蒲生氏郷が松阪より入封し、黒川城を大改築し若松城と改めました。猪苗代城には城代が置かれ、蒲生氏以降上杉氏、再度蒲生氏、加藤氏と続きますがその間ずっと若松城の支城として存在しました。

 

 寛永20年(1643年)若松城に保科正之が入城したあとも一国一城令の例外として存城し城代が置かれました。

 明治元年、戊辰戦争時に官軍が迫ってきたため城代高橋氏が城に火をかけ炎上し、そのまま廃城となりました。

☆私的見所

 鶴ヶ城(会津若松城)に対し、亀ヶ城とはなかなかいいネーミングですね。建築物は何もありませんが、本丸、二の丸など郭が良く残り、野面積みの石垣も保存状態はかなりいいです。初めてここに来ましたがちょっとお気に入りの城になりました。城郭というより会津東方を抑えるための砦ですね。本丸からは磐梯山の眺めが良いです。この日もきれいな磐梯山が見れました。

 

※近隣・関連史跡

→会津若松城へ

→向羽黒山城へ

→白河城(小峰城)へ

→白川城へ

→棚倉城へ

→水原城(水原代官所)へ

→伊達政宗の銅像へ

 

   

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