堀直竒 (堀直寄)

 

蔵王堂城の堀直竒像

撮影日:2004年5月22日

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堀直竒    (ほりなおより、三十郎、従五位下、丹後守)    ・・・天正5年〜寛永16年(1577〜1639年)

 

今回、写真サイズを大きくしてみました。現在中越地震のためか直竒像は撤去されてしまっています。

 

マイナー武将の登場です。堀直竒。おそらく新潟県の住民もほとんど知らないのではないでしょうか?事実、私も城や歴史に興味を持つまでは全く知りませんでした。そのくらい一般的には無名です。いずれにせよ、新潟県の中越から下越の人々にとってある意味上杉氏よりも多大な貢献をしている人なのですが・・・

 

上記の銅像は、新潟県長岡市にある蔵王堂城の土塁上に立っているものです。上杉氏が会津へ転封後越後は堀久太郎秀政の長男秀治が春日山城に入り、直竒は坂戸城1万石を与えられました。その秀治が31歳で死んだあと、堀家で内紛があり宗家が失脚し、30万石を召し上げられましたが、直竒は大坂の陣の功績や、駿府城の火災の時には一番に駆けつけるなどのことから、かねてから家康にお目通りがあったことが幸いして、宗家の失脚を尻目に晴れて独立大名となり坂戸城1万石 → 越後長岡蔵王堂城2万石 → 信濃飯山城4万石 → 再び越後長岡蔵王堂城8万石 → 越後村上城10万石と短期間のうちに出世していきます(・・・引越ししすぎ?)

 

特に2度にわたる長岡在城中には、長岡城の建設および城下の整備、信濃川の河口である新潟までの航路の整備によって長岡だけではなく新潟も港町として発展するようになります。ちなみに当時の新潟市周辺は沼地や潟が多く、人が住むには難しい土地だったと思います。以上から、現在の新潟市の発展は直竒抜きでは考えられないことになります。

結局直竒が長岡にいたのは、慶長7年〜15年(1602〜10年)、元和2年〜4年(1616〜18年)の10年ほどでしたが、長岡城の建設をはじめ、城下の整備は元和4年(1618年)から長岡城主となる牧野忠成に引き継がれます。

 

周知の通り長岡城は、明治以後の鉄道の敷設や太平洋戦争によって遺構を全く残していませんが、長岡城を築く前の蔵王堂城は本丸の一部の土塁と堀が残っていますので、直竒ファンは是非訪れてみましょう。土塁上で直竒が迎えてくれますよ(笑)。

 

いずれにせよ、堀直竒が新潟の発展に大きな足跡を残したことはもっと大きく取り上げねばならないと思います。

 

ついでに直竒の子孫についてですが、越後村上城主を孫の直定が継ぎますが、直定はわずか7歳で夭折してしまい、ここで大名家としての堀家は途絶えてしまいます。しかしながら、名家である堀家が途絶えるのを惜しまれ、直定の叔父である直時(直竒の次男)が越後村松城3万石にて名跡を取り立てられ、明治まで大名家として存続しました。

 

※関連・近隣史跡など

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