撮影日:2004年10月14日 以下の写真は、クリックすると大きいサイズになります。 |
01・追手門 |
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02・高遠閣 |
03・二の丸 |
04・二の丸土塁 |
05・桜雲橋、問屋門 |
06・桜雲橋、問屋門 |
07・桜雲橋、問屋門 |
08・本丸御門跡 |
09・本丸跡 |
10・太鼓櫓 |
11・空堀 |
12・南曲輪 |
13・空堀 |
14・空堀 |
15・空堀 |
16・法憧院曲輪 |
17・空堀 |
☆名称(別称) |
高遠城 (兜山城、甲山城、兜城) |
☆所在地 |
長野県上伊那郡高遠町東高遠 |
☆地図 |
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☆創築者、創築時期 (改修者、改修時期) |
天文16年(1547年、武田信玄) 創築?(諸説あり) |
☆城主 |
高遠氏? - 秋山氏 - 武田氏(勝頼・信廉) - 仁科氏 - 下條氏 - 保科氏(正直) - 毛利氏(城代) - 京極氏(城代) - 保科氏(正光、正之) - 鳥居氏 - 幕府直轄 - 内藤氏 |
☆遺構・復元物 |
土塁、空堀、大手門枡形石垣の一部、旧藩校進徳館(表門、講堂、寄宿舎など)が現存。 |
☆一言歴史 |
高遠は古くから諏訪氏の勢力下にあって、南北朝時代には高遠氏が支配していました。 戦国時代には武田信玄がこの地を侵略し、秋山信友・山本勘助らに命じて築城しました。このとき、高遠氏居城の地であったのか全く新しいところに築城したのかはわかっていません。 高遠城は自然の地形を巧みに利用した堅城で、断崖端に本丸を置き、その周りに二の丸を、さらにその外側に三の丸を配置しています。そしてその他にも勘助曲輪、笹曲輪、法憧院曲輪を配置し堅城ぶりが伺えます。
高遠城で最も有名なのは織田信忠による高遠城攻めでしょう。 天正10年(1582年)、武田方の木曽義昌が織田信長方へ離反したのをきっかけに、武田勝頼が新府城で挙兵します。義昌は即信長に援軍を頼み、長男信忠が先鋒として出陣します。信忠の攻めは迅速で飯田城、大島城を次々に落とし、出陣から10日ほどで高遠城を包囲してしまいます。 対する高遠城主仁科盛信は織田の軍勢との徹底抗戦に踏み切り篭城策をとります。兄勝頼の援軍を待ち、織田の軍勢を挟み撃ちにと考えたようです。 さすがに高遠城は堅城であるのでこれまでの支城のように容易には落せないと見たのか織田軍の先鋒隊は包囲するのみで本隊が到着するのを待ちました。 信忠軍が到着し、その翌日には森長可らが大手口から攻め入り、同時に信忠隊が搦手口から攻め入りました。盛信が待つ勝頼の軍勢は1ヶ月も前に新府城を出発していたのに、ついに現れず、盛信をはじめ城兵全員が討死し、高遠城は1日で落城しました。
信長横死後は保科正直が城主となり、その後飯田城の毛利秀頼、京極高知らの支配下となります。江戸時代には保科氏が再度城主になり、徳川家光の異母弟保科正之が出羽山形へ加増転封されると鳥居氏を経て内藤氏の治世が明治まで続きました。 |
☆私的見所 |
現存するのは、藩校進徳館のみです。城門などもありますが、改変移築されていますので、現存物とは少し言い難いですね。個人的には各曲輪とその間の空堀が見所ではないかと思います。 また、桜の名所100選に選ばれています。訪れるには春と紅葉の秋(10月下旬〜11月中旬らしい)が良いと思います。 |
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