直江兼続

 

直江兼続像

与板歴史民族資料館・南魚沼市役所前)

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01・与板

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03・与板

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07・与板

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直江兼続    (なおえかねつぐ、樋口与六、樋口兼続、直江兼続、直江重光、従五位下、山城守)    ・・・永禄3年〜元和5年(1560〜1619年)

 

 銅像ではありませんが、新潟県の南魚沼市役所前(旧六日町役場)に上杉景勝&直江兼続のレリーフみたいなものがあったので追加しました。やはりこの二人は切り離せないようですね。

 このレリーフは結構大きくて存在感は抜群です。が、観光の方々の目につくところにおいてほしかったですね。観光などで南魚沼市役所に来られることはまず無いでしょうから、地元の方々以外に知られることは少ないと思いますね。ちょっと残念です。

 

 銅像の方は、兼続の居城である与板城を訪れたあとに与板歴史民族資料館に立ち寄った時に撮影しました。同資料館は新潟県の与板町にあります。

 

 直江兼続は、上杉謙信や坂戸城主長尾政景に仕えた薪炭用人の樋口兼豊(のち御館の乱の功績により直峰城城主に取立てられる)の子で、幼少期に長尾喜平次顕景(後の上杉景勝とともに学び、顕景が上杉家に養子入りして上杉景勝となってからも近習として仕えました。その後御館の乱で景勝は上杉家の当主となり、後家となっていたお船を兼続に嫁がせ直江家を継がせました。

 兼続は、上杉家家老に抜擢され上杉家の全てを任されるようになりました。当然、古くからの重臣たちは拒否反応を起こしたことでしょう。しかしながら、持ち前の優れた政治感覚でそれらを押さえ、豊臣秀吉からも気に入られるほどの人物になります。事実、秀吉から豊臣姓まで受け賜っているほどです。上杉家が豊臣五大老となったのも直江兼続がいたからでしょう。

 その兼続の最大の転機はやはり関ヶ原だと思います。親しかった石田三成と約し、徳川家康を東西から挟み撃ちにしようとしますが、三成の早すぎる挙兵によって家康を引きつけておくことができませんでした(三成との共謀については真偽が不明ですが・・・)。しかも兼続の言うことに首を振ることが無かった景勝が、家康を追いかけて討とうと兼続が言ったことに対して首を振り、家康を討つきっかけを失ってしまいます。

 老獪な家康の策により裏切りが続出した西軍の敗戦により、上杉家は会津120万石から米沢30万石と1/4になってしまいます。上杉家は家臣の召し放ちをほとんど行わず、あふれた家臣や民のため兼続は城下町づくりに力を尽くします。

 残念なことに、直江家は兼続の嫡男が早世し、娘を本多正信の次男政重に嫁がせ養子入りさせましたが、娘の死去により養子入りは解消され、兼続の代で直江家は断絶してしまいました。なぜ、名門である直江家が断絶しなければならなかったかということについては、真相は不明です。

 

 兼続は、私の好きな武将の一人です。戦国モノが好きな人には、関ヶ原の戦いの要因というか口実を作った「直江状」や「閻魔様への手紙」で有名な人でしょうが、一般の人には私の地元新潟の人でさえ知らなかったりします。

 しかし、某TV番組で「愛」の兜が放送され、地方新聞「新潟日報」の朝刊で作家火坂雅志氏の小説が毎日連載されたこともあって、少しは一般の方にも名前が浸透するかもしれません。ちなみにタイトルは「天地人」でした。連載は2004年3月で終了しましたが、出版されることを願っています。

 

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