山形城(霞ヶ城)

撮影日2004年6月6日、2003年7月27日

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01・二の丸東大手門

P7270116.JPG (449882 バイト)

02・二の丸東大手門

P6060027.JPG (432075 バイト)

03・二の丸東大手門石垣

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04・本丸一文字門

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05・本丸一文字門

P6060050.JPG (427955 バイト)

06・本丸一文字門

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07・山形城推定図

P6060059.JPG (412564 バイト)

08・最上義光像

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09・二の丸東大手門枡形

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10・本丸一文字門

 

☆名称(別称)

山形城 (霞ヶ城、最上城、大山城)

☆所在地

山形県山形市霞城町

☆地図

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☆創築者、創築時期 

   (改修者、改修時期)

延文2年(1357年、斯波兼頼) 創築

文禄元年(1592年、最上義光) 修築拡張

元和9年〜(1623年〜、鳥居忠政) 修築

☆城主

斯波氏(最上姓に改姓) - 鳥居氏 - 保科氏 - 松平氏 - 奥平氏 - 堀田氏 - 松平氏 - 秋元氏 - 水野氏

☆遺構・復元物

石塁、堀、復元門など。発掘調査が進み、もっと復元されるといいですね。しかし、古写真が少ないらしく難航している様子です。

☆一言歴史

 延文元年(1356年)、羽州探題として斯波兼頼が現地に城を築いて最上氏と称したことが始まりです。11代目の最上義光の時に最大版図となります。義光は米沢の伊達輝宗、政宗父子と奥州の覇権を競います。大河ドラマでは最上家から嫁いだ母が政宗を忌み嫌い毒殺しようとする場面がありました。

 

 豊臣秀吉の小田原征伐に参陣したことによって所領を安堵され、養子の秀次に娘を献上したりと精力的に動きます。

後の関ヶ原合戦時には東軍につき、上杉軍と戦い、長谷堂城にて直江兼続率いる上杉軍をなんとか遮り苦戦していましたが、西軍の敗戦で危機を乗り切ったようです。合戦後は24万石から57万石の大大名に増封され庄内地方他も支配下に置き、実際にはおよそ100万石だったそうです。これが最上氏の全盛期で、その後は衰退し始めます。

 

 義光の孫義俊のとき世継ぎ争いから改易され、その後は城主が入れ替わってどんどん削封され、水野氏の頃には10分の1の5万石だったそうで、およそ100万石の時につくられた城を維持することができずにかなり荒廃していたといわれています。ちなみに最上氏は改易後、高家として明治まで存在し続けました。

 

 現在の山形城は霞城公園となっており、最上義光が修築拡張した城を、鳥居忠政が最上氏改易後にさらに修築した遺構です。天守は築かれなかったようですが輪郭式の遺構が良く残っています。

☆私的見所

 さくらんぼ狩りの帰りに再び山形城へやってきました。しかもまた昨年と同じ場所から入ってしまいました。本当は西門や、北門の石垣、南大手門なども見たかったのですがちょっと失敗です。見所は現在復元中の本丸一文字門と二の丸東大手門でしょう。そのうちまた行こうかと思います。

 

※関連・近隣史跡

→鶴ヶ岡城へ

→上山城へ

→最上義光の銅像へ

 

   

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