飯盛山(さざえ堂、厳島神社)

2004年11月13日の飯盛山、さざえ堂、厳島神社

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01・飯盛山入口

02・酒井峰治像

03・白虎隊の墓

04・白虎隊自刃の場所

05・鶴ヶ城

06・白虎隊自刃19士の墓

07・さざえ堂

08・さざえ堂

09・さざえ堂

10・戸ノ口堰洞穴

11・厳島神社

12・さざえ堂

13・白虎隊士像

 

☆名称(別称)

飯盛山、さざえ堂、厳島神社

☆所在地

福島県会津若松市一箕町大字八幡

☆地図

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☆一言歴史

  ご存知白虎隊自刃の地飯盛山です。

 

 白虎隊は、戊辰戦争の時に15〜17歳の少年のみの会津藩士で編成されました。

 時の会津藩主松平容保は京都守護職の要職にあり(担がされた感は否めませんが・・・)、また、徳川第四の藩として佐幕派につかねばならず、鳥羽伏見の戦いを始め各地で新政府軍と戦います。既に白河城、平城、二本松城と落城し、鶴ヶ城は新政府軍に包囲された形になっていました。

 慶応4年(1868年)8月22日に猪苗代城が落城すると容保は新政府軍の総攻撃がまもなく来ると判断し、白虎隊に出陣を命じます。彼らは勇敢に戦場へと向かい奮戦します。

 我々が知っているところで有名なのは「二番士中隊」37名が、新政府軍が会津城下に侵入するのを防ぐために戦った戸ノ口原の戦いです。彼らは勇敢に戦うものの、多勢に無勢といったところで敗れ、敗走します。その時に20名がはぐれてしまい、戸ノ口原から飯盛山へ通じる洞穴から逃れてきますが、その飯盛山で鶴ヶ城が炎上しているように見えた白虎隊士20名は「鶴ヶ城が落城してしまった以上、生きていても仕方がない」と判断し、全員飯盛山で自決をしました。このとき、奇跡的に一人が蘇生したため、今日まで白虎隊の悲劇として語り継がれることとなりました。

 ちなみに鶴ヶ城は4ポンド砲を打ち込まれたにもかかわらず落城はしませんでしたが、城下でも激しい戦いが繰り広げられ、武家の婦女子や子供は屋敷内で集団自決するなどの悲劇も忘れてはいけないでしょう。もちろん自決するものだけではなく、中野竹子のように奮戦した人もいましたが・・・

 結局鶴ヶ城では籠城から1ヶ月で容保が降伏し、戊辰会津戦争は終結しました。

 

 実は会津戦争終結後も悲惨で、明治2年(1869年)、生き残った会津藩士は没収された会津藩領に変わり旧南部藩領の一部である斗南藩3万石を受け取り移住しますが実質的な禄高は1万石に満たず多くの人が飢餓のため亡くなりました。 このあたりは昭和55年(1980年)に放映された菅原文太主演の大河ドラマ「獅子の時代」がなかなか良い出来でした。機会のある方はご覧ください。


 話は変わって、さざえ堂は、飯盛山の戸ノ口堰洞門の近くにあって寛政8年(1796年)に建立されたといわれる仏堂です。六稜三層の形がさざえに似ていることからこの名ヶ通称となりました。堂内はらせん状で参拝者は一度も同じ道を通ることなく、一方通行で堂内を参ることができるようになっています。現在は国の重要文化財に指定されています。

※関連・近隣史跡

→会津若松城(鶴ヶ城)へ

→神指城へ

→猪苗代城へ

 

   

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