01・御三階櫓跡 |
02・本丸北側土橋 |
03・本丸東北隅御三階櫓跡 |
04・松岬神社 |
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05・御堂(祠堂)跡 |
06・御堂(祠堂)上り口 |
07・上杉謙信像 |
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撮影日2004年6月2日、6月6日 以下の写真は、クリックすると大きいサイズになります。 |
08・伊達政宗生誕地碑 |
09・上杉鷹山像 |
10・上杉売店(笑)前 |
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11・北東隅御三階櫓跡 |
12・上杉神社 |
13・稽照殿 |
14・西北隅御三階櫓跡 |
15・春日神社 |
16・菱門橋 |
17・舞鶴橋と内堀 |
18・御堂(祀堂)跡 |
19・菱門橋と内堀 |
20・上杉記念館入口 |
21・上杉記念館 |
22・座の文化伝承館です。 |
☆名称(別称) |
米沢城(松ヶ岬城、舞鶴城) |
☆所在地 |
山形県米沢市丸の内 |
☆地図 |
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☆創築者、創築時期 (改修者、改修時期) |
暦仁元年(1238年、長井(大江)時広) 創築 天文17年(1548年、伊達晴宗) 改築 慶長3年(1598年、直江兼続) 改築 慶長6、9、13年(1601、04、08年、上杉景勝) 改築 延宝元年(1673年、上杉綱憲) 三重櫓造営 |
☆城主 |
長井(大江)氏 - 伊達氏 - 蒲生氏 - 直江氏(上杉氏家臣) - 上杉氏 |
☆遺構・復元物 |
本丸、土塁、堀など。 |
☆一言歴史 |
暦仁元年(1238年)に鎌倉幕府より奥羽長井庄(置賜郡)の地頭となった大江時広が居館を築いたのが始まりで、長井氏と称しました。 その後康暦2年(=天授6年、1380年)に伊達宗遠に攻められ長井氏は滅亡し、置賜郡は伊達氏の領地となります。伊達晴宗は居城を西山城から米沢城に移し、輝宗、政宗にわたり米沢城を本拠とします。
天正19年(1591年)に豊臣秀吉の奥州仕置によって伊達政宗は陸奥岩出山城へ移封され、会津の蒲生氏郷の領地となります。米沢城には家臣蒲生郷安が城主となりますが、氏郷が急死し、慶長3年(1598年)会津には越後春日山城から上杉景勝が120万石を与えられて入ります。米沢には景勝の家臣直江兼続が越後与板城より入ります。兼続は秀吉にことのほか気に入られ家臣の身でありながら破格の30万石を与えられます。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、景勝は豊臣方に属したために会津120万石から米沢30万石に減封されてしまいます。翌慶長6年(1601年)、景勝は米沢に入り、1/4の封領に見合う城に米沢城は改築されます。さらに慶長9年、13年(1604、1608年)と兼続の縄張りによって大改築を行い、現在の輪郭式の城となります。幕府に対する配慮から天守は構えませんでした。延宝元年(1673年)に上杉綱憲が本丸東北隅に御三階櫓を建てて天守代用としました。
上杉家は1/4の石高になっても家臣をあまり減らさなかったために藩の財政は極度の窮乏状態が続き、さらに4代目の綱勝が嫡子の無いまま急死したため、吉良家から養子を迎え5代目藩主綱憲としてその場をなんとかしのぎましたが、これを幕府に咎められ、さらに半分の15万石に削封されてしまいます。しかも高家である吉良家の金遣いは荒く、当然米沢藩の財政は火の車になってしまいました。因みにこの時吉良上野介が上杉家を乗っ取ろうとして綱勝を毒殺したという話もあります。当然、反対派の藩士もいましたが会津の保科正之によって抑えられました。こうしてなんとか藩の取り潰しは逃れましたが、吉良家との縁組によって上杉家は窮乏を極めてゆきます。
9代目の重定の時にはあまりの窮乏に幕府に封領を返上しようとしたといわれています。ここで登場するのが名君上杉鷹山(治憲)です。あのJ-F・ケネディも見習ったという鷹山の改革によって米沢藩の財政は好転し始めます。鷹山は日向の高鍋藩の秋月氏の次男で、上杉家に養子入りし、若干17歳で米沢藩の藩主となります。藩の産業を興し、民生を心がけ、自らも倹約に努めた(現代の政治家にも見習ってほしいですね。)そうです。鷹山についてのエピソードもたくさんありますが、詳細は鷹山関係の本を読んでくださいませ。 |
☆私的見所 |
米沢城は、上杉景勝が減封されてから改築した城(普請は直江兼続)なので、縄張りは単純で立派な天守や石垣も無い城ですが、本丸は現在上杉神社となっており、その隣に稽照殿という資料館があります。この稽照殿に謙信、景勝、鷹山、兼続の遺品(当世具足や刀剣類、史料など)が展示されております。あの兼続の「愛」の当世具足もあります!撮影禁止なのが非常に残念ですが。 お食事は上杉城史苑で米沢牛がお勧めと言いたいところですが高い(5000円〜!)です。私は2200円位のステーキ丼で我慢しました(・・・でもおいしかったですよ)。 |
※関連・近隣史跡