撮影日2005年5月21日 以下の写真は、クリックすると大きいサイズになります。 |
01・案内板 |
02・案内板 |
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03・城跡入口 |
04・会津本郷焼資料館 |
05・虎口? |
06・三の曲輪 |
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07・羽黒山神社入口 |
08・羽黒山神社 |
10・三の曲輪 |
09・三の曲輪 |
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11・三の曲輪 |
12・源平沼 |
13・源平沼 |
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14・土塁 |
15・みかえり坂 |
19・会津若松城・黒川城 |
16・みかえり坂 |
23・城道 |
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17・二の曲輪 |
18・二の曲輪 |
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20・会津若松市遠景 |
21・虎口 |
22・虎口 |
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24・土塁・虎口 |
25・土塁・虎口 |
26・土塁・堀切 |
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27・一の曲輪 |
28・一の曲輪 |
29・城道 |
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30・西曲輪付近 |
31・堀切 |
32・虎口 |
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33・土塁 |
34・土塁 |
35・土塁・虎口 |
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36・堀切 |
37・弁天曲輪 |
38・弁天曲輪 |
☆名称(別称) |
向羽黒山城 (岩崎城) |
☆所在地 |
福島県大沼郡会津本郷町字船場 |
☆地図 |
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☆創築者、創築時期 (改修者、改修時期) |
永禄4〜11年(1561〜68年)、蘆名盛氏 創築 天正12年(1584年)、伊達政宗 改修 天正18年(1590年)、蒲生氏郷 改修 慶長3年(1598年)、上杉景勝 改修 元和元年(1615年)、一国一城令により破却? |
☆城主 |
葦名氏 - 伊達氏 - 蒲生氏 - 上杉氏 |
☆遺構・復元物 |
各曲輪、石塁?、土塁、空堀などが現存。国史跡。 |
☆一言歴史 |
蘆名氏は、桓武平氏良文からの三浦氏の一族で、相模の豪族三浦義明の子佐原義連がその祖とされています。
向羽黒山城は、当時会津領主であった蘆名盛氏が永禄4〜11年(1561〜68年)の8年間にわたって岩崎山に築いた城です。平時は黒川城(のちの会津若松城)を使用し、戦争時には立てこもるために向羽黒山城を築いたようです。他にも小田山城が戦争時に使用される城であったようです。
その向羽黒山城も蘆名盛氏が死去したことによって、城自体は残存することとなりますが、政治のメインは黒川城へと移されることとなります。 盛氏死後は、蘆名氏の隆盛も翳りが見えてきて、家中の争いが多くなります。その隙を突いて天正12年(1584年)には、伊達勢が会津北部に進攻、翌天正13年(1585年)には裏磐梯に伊達政宗が桧原城を築いたことによって、蘆名と伊達とのにらみ合いが始まります。蘆名氏は、伊達勢との対抗策として柏木城を築いたり、鶴峯城(弦峯城)やこの向羽黒山城も修築したりして政宗に備えます。 しかし、それらの防御もむなしく、一族の猪苗代盛国が裏切って政宗に加担したことから、摺上原の戦いで蘆名氏は大敗し滅亡しました。
会津は政宗のものとなり、黒川城を拠点としてさらに南進しようとしますが、豊臣秀吉の奥州仕置きによって奥州岩出山城へと押し戻されてしまいます。 政宗に替わって会津領主の座には蒲生氏郷がつき、黒川城を大改修し、若松城と改めました。氏郷は、この向羽黒山城も天正18年(1590年)から文禄元年(1592年)にかけて改修してその後も継続して使用しました。
慶長3年(1598年)に越後春日山城から上杉景勝が会津に入り、向羽黒山城を大改修をします。さらに徳川家康の会津進攻に備えて、若松城の北に新しく神指城を築き始めるだけでなく、会津周辺の城を改修します。城のほかに馬入峠などの山岳部には防塁を築き備えます。
慶長5年(1600年)関ケ原の戦いで西軍についた景勝は、敗戦後家康に謝罪し、翌慶長6年(1601年)に米沢へと転封となりました。
上杉景勝のあと会津の新領主には、一旦蒲生氏が返り咲きますが、家中の内紛から改易となり、伊予松山より加藤嘉明が入封します。向羽黒山城は、加藤氏の治世の時、元和の一国一城令により破却されました。 |
☆私的見所 |
鶴ヶ城(会津若松城)からクルマで15分くらいのところにある焼物の町会津本郷にあります。かなり大きな城で、蘆名氏の勢力が強大であったことがわかります。 城の見所は、一の曲輪、二の曲輪、水の手曲輪、西曲輪周辺の空堀、土塁などがオススメです。石積み石垣は草が生い茂っていてよくわかりませんでした(:´Д`)。
また、焼物の町ということで焼物資料館などもどうぞ。 |
※近隣・関連史跡
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