神指城

撮影日2005年1月14日

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01・本丸遠景

02・二の丸東北隅櫓遠景

03・本丸西南隅、二の丸西北隅櫓

04・本丸南側

05・本丸西南隅

06・本丸南側

07・本丸西北隅、二の丸西北隅櫓

08・本丸西北隅

09・二の丸西北隅櫓

10・二の丸東北隅櫓

11・本丸北側

12・二の丸東北隅櫓

13・本丸、二の丸東北隅櫓

14・二の丸東南隅櫓

撮影日2004年11月13日

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15・二の丸東北隅櫓?跡

16・二の丸東北隅櫓?跡

17・二の丸東北隅櫓?跡

18・二の丸東北隅櫓?跡全景

19・基礎石

20・本丸遠景

 

☆名称(別称)

神指城

☆所在地

福島県会津若松市神指町大字高瀬

☆地図

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(ちょうど地図上で指しているところが本丸跡、その本丸跡の右上にある「高瀬の大木」となっているところが東北隅櫓跡です。)

☆創築者、創築時期 

   (改修者、改修時期)

慶長5年(1600年、上杉景勝) 創築

同年、 関ヶ原の戦いにて西軍が敗退となったため築城途中で廃城

☆城主

(上杉氏)

☆遺構・復元物

本丸、二の丸の土塁などが現存。また、築城前からあったといわれる高瀬の大木(写真02の右側の木です。)があります。

☆一言歴史

 慶長3年(1598年)、蒲生秀行に代わって会津には越後春日山城より上杉景勝が120万石の太守として入封しました。まもなく豊臣秀吉は伏見城で逝去し、豊臣政権は徳川家康が専横し始めました。

 景勝はやがて家康と一戦を交えることを予想して、家老直江兼続を総普請奉行に命じ新城を築こうとしました。理由としては若松城では城地狭小であり、また、若松城の背後にある小田山が近いため大砲を撃ち込まれる恐れがあったからともいわれています。

 神指城と名づけられたその新城は、若松城の北西約8キロの神指原に位置し、輪郭式の平城でした。慶長5年(1600年)2月から築城を開始し、築城にあたっては上杉氏の領内から8万人(12万人説あり)もの人夫を動員し、東山町の石切山から2里の間に人夫を並べ手送り(!)で運んだといわれています。

 しかし、完成直前の6月に景勝は突如築城工事の中止を命じました。すでに状況が緊迫していたことが理由の一つと思われます。

 家康は上杉討伐という名目で伏見を発ち、小山まで軍を進めていましたが、呼応していたかのように石田三成がこのとき挙兵したため、家康は景勝と一戦も交えることなく大阪に引き返しました。

 結局、関ヶ原の戦いでは西軍が敗退したため神指城は完成を見ることなく破却されてしまいました。破却された神指城の石垣は若松城修築時に使用されたといわれています。

☆私的見所

 完成していたなら、輪郭式で総石垣造りのかなり大きな城であったはずですが、今となってはあまり城という面影はありません。個人的には歴史的な意味を持つ城跡であり、訪れてみたいところでした。

 会津盆地の田んぼの中に本丸跡と、二の丸の隅櫓跡が3箇所残っているのみです。見所はこの4箇所です。今回は東北隅の土塁に行ってみました。西北隅には石垣が残っているらしいのですが日没のため、またの機会に行こうと思います。

 また、神指町内には戊辰戦争で戦った会津婦女薙刀隊の中野竹子殉節の碑があります。

 

※関連・近隣史跡

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