春日山城

撮影日:2004年4月8日

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01・竪堀

02・甘粕近江守屋敷付近

03・三の丸、三郎景虎屋敷

04・三の丸土塁

05・三の丸土塁

06・実城

07・二の丸

08・実城

09・本丸

10・大井戸

11・大井戸

12・虎口

13・虎口

14・景勝屋敷

15・本丸

16・春日山城址碑

17・城下

18・護摩堂

19・お花畑

20・お花畑

21・虎口

22・直江屋敷

23・直江屋敷

24・虎口

25・虎口

26・堀切

27・千貫門付近

28・千貫門

29・春日山神社

30・春日山城絵図

31・案内図

32・上杉謙信像

33・林泉寺

34・春日山トンネル

 

☆名称(別称)

春日山城 (鉢ヶ峰城、春日山要害)

☆所在地

新潟県上越市中屋敷

☆地図

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☆創築者、創築時期 

   (改修者、改修時期)

永正年間頃?(1504〜20年、長尾為景?)

慶長11年(1606年)堀忠俊が福島城に移ったため廃城

☆城主

長尾氏(のち上杉氏の名跡を継ぐ) - 堀氏

☆遺構・復元物

郭跡、屋敷跡、堀切、井戸跡など。山麓にある林泉寺の門は春日山城の搦手門と伝えられている。

☆一言歴史

 戦国大名上杉謙信の城としておそらく新潟県の城では一番有名な城ではないかと思います。しかしながら、築城の年代については不明で、一説には南北朝時代に築城されたのではないかとも言われています。春日山城が現在の姿に発展したのは謙信の父長尾為景の頃であり、長尾為景が築城したとしてもあながち間違いではないかもしれません。

 

 謙信は幼名を虎千代といい、政虎→輝虎→謙信と名を変えていきます。19歳で越後の守護代に任命されますが、守護家が断絶したため謙信が越後の国主になります。これだけを見るととんとん拍子に出世して他の戦国武将とはあまり変わらない気がしますが謙信が他の戦国武将と異なり好感が持たれているのは利のためではなく義のために戦をしていたからでしょう。従って、戦をするのは朝廷や室町幕府の要請があったとき、越後に侵略をかけてきた場合に限られていました。

 また、第二次川中島合戦後に越後の国衆たちの内紛が起こりその調停に非常に苦慮し、国主としての自信を喪失してしまい、27歳の若さで隠退を決意します。争いばかりの俗世を離れ僧侶になろうとしたとのことです。しかし、比叡山に向かう途中義兄の長尾政景に見つかってしまい、説得されて戻ってきます。その後は生涯負け戦は無いといわれた戦国屈指の武将として上杉軍団を率いていきます。

 

 謙信は、織田信長を倒すため京を目指し西進しますが天正6年(1578年)49歳で他界します。すると相続をめぐって景勝と景虎の二人の養子が争い、御館の乱が起こります。御館の乱では景勝が勝利を収め、謙信の志を継ぐため西進しようとします。ところが信長も本能寺にて横死していました。そこへ明智光秀を破り天下統一を目前にした羽柴秀吉景勝のところへやってきます。景勝は少人数でやってきた秀吉を殺そうとはせず、すでに天下は秀吉のものと読み臣従します。慶長3年(1598年)、景勝は120万石の禄で会津へ転封となり、豊臣政権の五大老に取り立てられました。

 

 景勝移封後の春日山城には堀秀治が入城し、慶長11年(1606年)子の忠俊が直江津(現新潟県上越市)の福島城に移ったため廃城となりました。

☆私的見所

 建築物こそ何も残っていませんが、戦国時代の有名な8つの山城(七尾城、一乗谷城、稲葉山城、観音寺城、小谷城、吉田郡山城、月山富田城)のひとつです。また、城門の移築された山麓の林泉寺にも足を運ぶと良いでしょう。

 

※近隣・関連史跡

→上杉謙信の銅像へ

→上杉景勝の銅像へ

→直江兼続の銅像へ

→鮫ヶ尾城へ

→高田城へ

→直峰城へ

→栃尾城へ

→信濃飯山城へ

→会津若松城へ

→神指城へ

→米沢城へ

→松代城(海津城)・八幡原史跡公園へ

 

   

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