二本松城 (霞ヶ城)

撮影日2004年4月7日

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10・復興の箕輪門

11・箕輪門、二本松少年隊像

01・本丸東櫓台

02・本丸石垣と虎口

03・天守台

04・本丸東櫓台

05・本丸枡形虎口

06・本丸石垣、西櫓台

07・天守台

08・発掘された旧石垣

09・本丸東櫓台

12・郭、空堀

13・二段石垣

14・堀切

15・高石垣

 

☆名称(別称)

二本松城 (霞ヶ城)

☆所在地

福島県二本松市郭内

☆地図

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☆創築者、創築時期 

   (改修者、改修時期)

嘉吉年間(1441〜43年、畠山満泰) 創築

寛永5年(1628年) 加藤明利 修築

正保3年〜明暦元年頃(1646〜1655年頃) 丹羽光重 修築

☆城主

畠山(二本松)氏 - 片倉氏 - 伊達氏(城代伊達成実) - 蒲生氏(城代蒲生郷成、町野重仍) - 上杉氏(城代下条忠親、秋山定綱) - 蒲生氏(城代梅原弥左衛門、門屋助右衛門) - 松下氏 - 加藤氏 - 丹羽氏

☆遺構・復元物

本丸、二の丸郭跡、石塁、復元本丸石垣、復興箕輪門など。

☆一言歴史

 興国2年(暦応4年、1341年)に奥州探題に任命された畠山高国が二本松に居館を置いたことが始まりで二本松姓を名乗ります。4代目の満泰のとき山上に城郭を築きました。畠山氏は天正12年(1584年)、12代目の義継のとき伊達政宗の父輝宗を人質にとり政宗に輝宗もろとも射殺されてしまいます(大河ドラマの名場面ですが・・・)。この辺は史実かどうかはちょっと疑問の残るところですが。その後畠山氏は衰退し、子の義満も翌天正13年(1585年)政宗に攻められ畠山氏は滅亡します。

 

 そのまま二本松城は伊達氏の支城となりますが、豊臣秀吉の奥州仕置によって会津の蒲生氏郷の所領となります。

 氏郷死後はその所領を引き継いだ会津の上杉景勝の支城となり、関ヶ原の戦以降は再度蒲生氏(秀行)の所領とめまぐるしく城主が変わります。

 その後さらに松下氏、加藤氏と続き寛永20年(1643年)白河より丹羽光重10万石で移封されると丹羽氏の治世が続き、そのまま明治維新を迎えます。光重は正保3年(1646年)より城の改築を始め、明暦元年(1655年)頃完成したといわれています。この時山上には三重の天守が築かれたようです。

 

 慶応4年(1868年)二本松藩は戊辰戦争にて東軍として奮戦し、落城します。この時会津の白虎隊と同様の運命を辿った二本松少年隊の悲話が伝えられています。

☆私的見所

 中世の郭と山上に復元された本丸石垣ですね。中世城郭の縄張りを保ったまま近世城郭風にしていたところが面白く、見所は多いです。石垣も当時の工法により復元され、案内板で詳しく説明されています。この日は予報が晴れなのに雨が降り始めて思いのほか早く暗くなってしまい、全てを見ることができませんでした。正直なところ、まだ見ていないところも多いため再度登城したいです。

 

※関連・近隣史跡など

→会津若松城へ

→白河城(小峰城)へ

→白川城へ

→猪苗代城へ

→棚倉城へ

→鴫山城(南山城)へ

→伊達政宗の銅像へ

 

   

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