棚倉城

撮影日2005年10月14日

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01・案内図

02・案内図

03・本丸北二の門

14・欅の大樹

04・本丸土塁、堀

05・本丸北二の門

06・本丸土塁

07・本丸北二の門

08・本丸

09・本丸、追手門

10・本丸追手門土塁

18・本丸土塁

11・本丸土塁

12・本丸土塁

13・本丸追手門

15・追手門枡形土塁、堀

16・本丸、堀

17・本丸、堀

19・本丸追手門枡形

20・本丸、堀

21・本丸、堀

 

☆名称(別称)

棚倉城 (亀ヶ城)

☆所在地

福島県東白川郡棚倉町大字棚倉

☆地図

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☆創築者、創築時期 

   (改修者、改修時期)

寛永2年〜(1625年〜 、丹羽長重) 築城開始

寛永年間(1625〜44年)頃、内藤氏が城主の頃に完成か?

☆城主

(立花氏) - 丹羽氏 - 内藤氏 - 太田氏 - 松平氏 - 小笠原氏 - 井上氏 - 松平氏 - 阿部氏

☆遺構・復元物

本丸郭跡、土塁、二の丸石垣の一部、堀、門などが現存。

☆一言歴史

 慶長8年(1603年)、関ヶ原の戦にて西軍に与し、所領を没収されていた立花宗茂が大名として復活し、陸奥棚倉5000石を与えられ、赤館城を居城としました。宗茂はその後大坂の陣や島原の乱などで戦功を上げ、のちに3万5000石まで加増されます。さらに元和8年(1622年)には旧領筑後柳河に返り咲き、10万9000石の所領となります。

 

 立花氏が去ったあとの棚倉には、常陸古渡(ふっと)より立花氏と同じく関ヶ原の戦にて西軍に与して所領を失っていた丹羽長重が5万石にて入封します。長重も当初赤館城を居城としていましたが、寛永2年(1625年)に都々古和気神社のあったこの地を城地に選び、築城に着手します。

 長重は、寛永4年(1627年)に城が未完成のうちに白河へ移封となり、内藤信照が7万石で入封します。内藤氏3代の頃に城が完成したのではないかと思われます(・・・個人的意見です)。

 内藤氏以後も城主は5〜7万石程度の大名が次々と入れ替わり、明治を迎えます。

 

 戊辰戦争時には奥羽越列藩同盟に加盟したため官軍の攻撃を受け、城主であった阿部正外は城に自ら火をかけて逃れ、棚倉城は落城しました。

 

 明治4年(1871年)、棚倉県庁となりますが、数ヶ月ほどですぐに平県に合併となります。

 昭和23年(1948年)には本丸が亀ヶ城公園となり、現在に至ります。

☆私的見所

 高い土塁と広い水堀が現存する以外と貴重な土造りの城です。土塁の城ではありますが、お城の雰囲気たっぷりですヽ(´ー`)ノ。

 旧二の丸にわずかに残っているらしい鉢巻石垣と、その後丹羽長重が築城した白河城(小峰城)二本松城から推測すると、この棚倉城も総石垣にするつもりだったのでは?と思えます(個人的な意見です)。

 土造りの城とだからといって、がっかりすることなかれヽ(´ー`)ノ。以前に行った秋田の久保田城も土造りでしたが、本丸の土塁や堀がほぼ完存しているため、こちらの方がお城としての雰囲気をもっと強く感じます(規模は久保田城の方が大きいですが・・・)。

 しかも、縄張りは当時最新鋭の輪郭式と呼ばれるもので、本丸を二の丸が丸々一周取り囲み、さらにその周りを三の丸が取り囲むという形式です。さらに、本丸の虎口は枡形門で固めているという堅固さです。個人的には書籍等の写真で見るよりも、ずっと良かったです。

 

 ちなみに江戸時代に3つもの城を築いたのは丹羽氏しかいません。名築城家というと大抵は、藤堂高虎や加藤清正という名が挙がると思いますが、ここに丹羽長重の名前を入れても良いのでは?などと密かに思っています。

 

 しかしながら、またしてもよく調べていかなかったために、石垣や移築されている南門が現存していたことを知らずに見逃してしまいました(:´Д`)。

 私の住む新潟からは180kmほどなので、再度訪れることはさほど困難ではありませんので、またの機会に・・・ということでお許しをm(_"_)m。

 

 先にアップしましたが、赤館城もかなり近いところにありますので、足を運んでみてはいかがでしょうか?

 

※関連・近隣史跡など

→会津若松城へ

→白河城(小峰城)へ

→白川城(搦目城)へ

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→二本松城へ

→赤館城へ

→三春城へ

 

       

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