五十公野城

撮影日:2005年5月6日

以下の写真は、クリックすると拡大します。

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01・五十公野茶屋土塁

02・航空写真

03・遠景

04・案内図

05・登城口

06・城道

07・躑躅

08・土塁、堀切

09・土塁、堀切

10・本丸

11・本丸虎口

12・土塁、堀切

13・土塁、堀切

14・本丸

15・土塁、堀切

16・土塁、堀切

17・五十公野城北面

 

☆名称(別称)

五十公野城 (いじみのじょう)

☆所在地

新潟県新発田市五十公野

☆地図

  ←地図はこちらをクリック。五十公野茶屋を目指していくと良いです。

☆創築者、創築時期 

   (改修者、改修時期)

築城時期、築城者ともに不明(鎌倉時代に築城か?)

改修時期不明

天正15年(1587年)落城したため、そのまま廃城か?

☆城主

五十公野氏(佐々木氏)

☆遺構・復元物

郭、土塁、虎口、空堀などが現存。本丸跡に城址碑があります。

☆一言歴史

 城主であった五十公野氏は、新発田氏とともに鎌倉幕府の成立以前から源頼朝側についていた佐々木氏の流れで、幕府成立後に越後加地荘を拝領した佐々木盛綱を祖とします。

 

 五十公野氏が大きくクローズアップされるのは、戦国時代末期の天正6年(1578年)に上杉謙信が急逝したことによって、景勝と景虎の二人の養子が上杉家の家督を巡って争った御館の乱のときでしょう。五十公野氏は当時新発田城主新発田長敦の弟で、五十公野重家が継いでいました。重家は長敦の死後新発田姓に復姓しています。

 長敦は御館の乱において、弟の重家とともに景勝方として大活躍しましたが、景勝から期待された恩賞は得られなかったために、それに対する不満が募っていきました。

 その頃、長敦が病死し弟の五十公野重家が新発田氏の名跡を継いで謀反を起こしました。新潟津を占領し織田信長会津の葦名義広などと通じて上杉氏の支配から独立を図ろうとしました。

 

 織田の軍勢と新発田勢に四方から囲まれた形となった上杉氏は滅亡間近かと思われましたが、本能寺で織田信長が明智光秀によって殺されてしまったため、今度は重家が滅亡の危機に追い込まれてしまいました。

 本能寺の変ののち再び信州や越中を回復した景勝は、重家の謀反を平定しようとしますが、さすがに戦巧者の重家との戦いは容易ではなく苦戦していました。

 信長亡き後に、柴田勝家との跡目を争いに勝った羽柴秀吉がほぼ天下を掌握し、その後関白に命ぜられました。景勝との戦いで有利な立場であった重家は一転して滅亡の危機に瀕してしまいました。

 

 天正15年(1587年)景勝秀吉重家討伐の大義名分を得て、春日山城を発ちました。まず手始めに水原城を落すと、会津黒川城の葦名義広が重家に通じて兵や物資を送っていることがわかったため補給路を断ち、あらためて兵を増強して五十公野城と新発田城を攻撃しつつ、赤谷城や加地城を次々に落しました。

 五十公野城は、五十公野氏を継いだ五十公野(長沢)道如斎が守っていましたが、直江兼続、藤田信吉ら上杉氏の精鋭たちの大軍による怒涛の攻撃のためか、城内に内応者が出たことで陥落しました。天正15年(1587年)のことでした。

 

 重家は五十公野城が落ちたあとも、新発田城にて奮戦し、家来たちは最後まで重家とともに戦い、一人残らず討死したといわれています。その戦いぶりは景勝も賞賛するほど見事であったといわれています。上杉氏に7年もの間抵抗し続けた鎌倉時代以来続いた越後の名族新発田氏は滅亡しました。

 

 その後、上杉氏が会津へ転封となったのち、堀秀治の与力として越後に入ってきた溝口秀勝が廃墟となっていた新発田城の跡地に再び築城する前に、五十公野に居所を築きました。

☆私的見所&感想

 遺構は本丸とその周辺のみに確認できます。他は中学校敷地や遊歩道として整備されてしまっているため、私にはよくわかりませんでした。

 のちに新発田を領した溝口秀勝新発田城築城前に居所(のちの藩主別邸)としていたところが五十公野茶屋として現存しています。

 

※関連・近隣史跡

→新発田城へ

→笹岡城へ

→水原城へ

→春日山城へ

→新発田重家の銅像へ

→上杉景勝の銅像へ

→直江兼続の銅像へ

→溝口秀勝の銅像へ

→五十公野茶屋へ

 

   

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