新発田重家

福勝寺の新発田重家像

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新発田重家    (しばたしげいえ、新発田伯耆守綱貞の子、五十公野源太、治長、因幡守)    ・・・天文15年?〜天正15年(1546〜87年)

 

 何度も新発田城足軽長屋、清水園など新発田市へは何度も足を運んでいたにもかかわらず、新発田重家の銅像があったことはわかりませんでした。以下簡単に新発田氏の概略を・・・

 

 新発田氏は元来佐々木氏の流れで、鎌倉幕府の成立以前から源頼朝側についていました。幕府成立後、越後の城氏討伐後に越後加地荘を賜った佐々木盛綱の子孫が加地氏を称して、やがて新発田氏、竹俣氏などに分かれていきました。

 

 南北朝時代になると、前出の佐々木氏一族は、足利方に味方して南朝方と戦いました。南北朝の対立が収束すると、越後には守護上杉氏と守護代長尾氏の統治化が行われました。やがて現地で政務を執り行う長尾氏と上杉氏の対立が始まっていき、応永末期(1421〜27年)には「応永の乱」と呼ばれる越後を二分した戦いが起こりました。

 この頃から佐々木氏の一族から加地氏と並び新発田氏が国人領主として台頭してきました。


 戦国時代には新発田氏は加地氏をしのぎ、阿賀野川以北の国人領主(揚北衆)のなかでは、守護代である長尾為景に対抗する勢力となっていきました。
 長尾為景が隠居し、長男晴景に家督を譲ったあとも越後は戦乱の真っ只中でしたが、病弱であった晴景はまもなく弟の上杉謙信(当時は長尾景虎ですが便宜上謙信と表記します)に家督を譲ります。

 その頃には一族の長尾政景も謙信のもとに降り、揚北衆も従うようになっていました。新発田長敦は謙信に仕えて重臣的地位になっていました。

 

 天正6年(1578年)謙信が急逝すると、景勝と景虎の二人の養子が上杉家の家督を巡って争った御館の乱が起こりました。新発田長敦は景勝方につき、一族の五十公野氏を継いでいた弟重家も活躍し、景虎が鮫ヶ尾城で自刃し、景勝が正式な上杉氏の名跡を継ぐことになりました。

 

 しかしながら、活躍した重家らには大した恩賞が与えられず、それに対する不満が募っていきました。その頃、新発田長敦が病死し、新発田氏の名跡は弟の五十公野重家が実家に戻って継ぎました。重家は謀反を起こし、新潟津を占領し織田信長と通じました。

 

 この時が上杉景勝にとって最も苦しい時期だったのではないでしょうか?御館の乱の時に和議を結んでいた武田勝頼があっさりと信長の軍勢に撃破され、柴田勝家が率いる軍勢には越中の魚津城を攻められ、信濃口からは森長可が、三国峠からは滝川一益がと、三方から侵略されかかっていました。このため、笹岡城水原城を攻撃してくる重家にも手こずり、上杉景勝は滅亡寸前にまで追い込まれていました。

 しかし天は重家に味方せず、本能寺で信長が明智光秀によって殺されてしまったため。今度は重家が滅亡の危機に追い込まれてしまいました。

 本能寺の変ののち再び信州や越中を取り戻した景勝は、重家の謀反を平定しようとしますが、さすがに戦巧者の重家との戦いは容易ではなく苦戦していました。

 

 信長亡き後は、羽柴秀吉と柴田勝家が跡目を争っていましたが、秀吉から勝家の背後を突けば越中と能登は上杉領と認めると言ってきたものの、信州からは徳川家康が、上州からは北条氏政が迫ってきていることから、景勝は容易には動けませんでした。そのため秀吉に違約を咎められてしまい、越中、能登の領有は取り消されてしまいました。

 秀吉は、このあと賤ケ岳の戦いで柴田勝家を破り、北庄城で自刃に追い込んだことでほぼ天下を掌握し、関白に命ぜられました。これによって、戦国大名が勝手気ままに領土を切り取っていく時代は終わり、戦をするにも大義名分が無ければならない時代となっていました。

 

 天正15年(1587年)景勝は越後平定を目的として秀吉に重家討伐の大義名分を得て、軍を発しました。まず手始めに水原城を落すと、会津黒川城の葦名義広が重家に通じて兵や物資を送っていることがわかったため補給路を断ち、あらためて兵を増強して五十公野城と新発田城を攻撃しつつ、赤谷城や加地城を次々に落しました。

 重家は五十公野城が落ちたあとも、新発田城にて奮戦し、家来たちは最後まで重家とともに戦い、一人残らず討死したといわれています。その戦いぶりは景勝も賞賛するほど見事であったといわれています。上杉景勝に7年もの間抵抗し続け、揚北衆の重鎮として鎌倉時代以来続いた越後の名族新発田氏は滅亡しました。

 

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