笹岡城

撮影日:2005年5月6日

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01・城跡入口

02・案内図

03・搦手口土塁壁

04・搦手口土塁壁

05・北の丸

07・縄張り図

06・搦手口

10・本丸東南側土塁

11・本丸西南側土塁

09・本丸

08・本丸東南側土塁

14・二の丸への階段

12・本丸

13・中の丸、鑑洞寺

15・鑑洞寺

16・古城主の墓

17・虎口?

18・二の丸

19・虎口

20・二の丸土塁

21・本丸土塁

23・本丸

27・十郎杉

22・舟溜り

24・稲荷神社と土塁

25・二の丸

26・舟溜り

28・遠景

29・遠景

 

☆名称(別称)

笹岡城 (篠岡城)

☆所在地

新潟県阿賀野市笹岡

☆地図

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☆創築者、創築時期 

   (改修者、改修時期)

正平5年(=貞和6年、1350年)頃、笹岡資尚(篠岡資尚) 創築?

改修者、改修時期不明

天正13年(1585年)、新発田治長の攻撃により落城し廃城となる

☆城主

笹岡氏 - 和田氏 - 中条氏 - 山浦氏(村上氏) - 今井氏(酒井氏、黒金氏)

☆遺構・復元物

曲輪、土塁、空堀、十郎杉など。十郎杉及び笹岡城址が阿賀野市指定文化財となっています。

☆一言歴史

 弘法大師によって開山された五頭山の麓にあって、南北朝〜戦国時代にかけては阿賀北支配の拠点となりました。

 貞和年間(1350年頃)に南朝に仕えた篠岡中将資尚がここに城を構え、名声と人望があったという。
 一説には、和田太郎義盛の子、三郎五郎兵衛義茂の子がはじめて中条郷の地頭となり。その居城であったともいう。
 越後全土に戦火が及んだ応永の乱(1423〜25年頃)に際しては、中条房資(奥山庄中条)が一時期ここに派兵し籠城した。
 享禄・天文・弘治年間(1530〜60年頃)は山浦源吾国清の居城であったが、上杉景勝の家臣今井源右衛門国広が御館の乱(1578年)の功績によって魚沼上郷城より転封され、酒井新左衛門、黒金宮内の二人がこれを守っていた。
 その後、新発田合戦(1582〜86年)に際しては、上杉景勝が新発田攻めに布陣するなど、阿賀北での重要な位置を占めていました。東方山側の街道を守る鉢盛城とともに新発田城攻撃の前線基地として重要な役割を果たしていた。
 天正13年(1585年)、新発田重家によって落城し、その後城主がなく廃城に至った。

 

 この笹岡城は、自然の地形を巧みに利用した中世の平山城で、上杉景勝新発田攻めに布陣するなど、阿賀北での重要な位置を占めていました。
また、本丸跡をはじめとして二の丸・三の丸跡あるいは帯郭や土塁・空堀の様子を現在も見ることができます。

 

以上、案内板より丸写し(:´Д`)。横着してすみません。

☆私的見所

 中世城郭にしては珍しい平山城です。笹岡地区周辺は現在水田地帯となっていますが、往時は湿地や沼地に囲まれていたであろうことから舟溜りなどの遺構もあります。各曲輪や土塁などが現存しています。

 近隣に江戸時代の豪農の館五十嵐邸があり、こちらはお城ではありませんが、オススメです。なお、五十嵐邸はレストランになっており、お食事もおいしいです。

 

※近隣・関連史跡など

→新発田城へ

→水原代官所・水原城へ

→五十公野城へ

→五十公野茶屋へ

→新発田重家の銅像へ

→上杉景勝の銅像へ

→五十嵐邸へ

 

   

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