溝口秀勝

 

新発田城の溝口秀勝像

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溝口秀勝    (みぞぐちひでかつ、竹、金右衛門、定勝、従五位下、伯耆守)    ・・・天文17年〜慶長15年(1548〜1610年)

 

 新発田城本丸の溝口秀勝像です。国重要文化財である表門をくぐるとお目にかかれます。ちなみに、表門の前には堀部安兵衛像もあります。

 

 溝口秀勝は、尾張の中島郡溝口の出身で、幼名は竹、元服して金右衛門定勝と名乗りました。当初は丹羽長秀の家臣として仕えていましたが、武功を立てたことによって、天正9年(1581年)織田信長の直臣となります。

 翌天正10年(1582年)信長が本能寺の変で信長が横死すると再度長秀に仕え、天正11年(1583年)の賤ケ岳の戦では豊臣秀吉側につき、その戦功によって加賀大聖寺城主となり4万4千石を領しました。長秀没後は、子の長重にしばらく仕えていましたが、やがて長重の元を去って秀吉の家臣となり、「秀」の字をもらい秀勝と名乗ります。

 

 慶長3年(1598年)上杉景勝が会津へ移封となり、越後には堀秀政の子秀治が春日山城に入ると、その与力として秀勝が新発田に、村上頼勝が本庄(のち村上)にそれぞれ入封しました。

 新発田に6万石の所領を得て入封した秀勝は、当初五十公野(いじみの・現在新発田市五十公野)に仮の居館を造り、そこで政務を執り行うと同時に、上杉景勝によって滅ぼされた新発田氏の居城跡に新しく城を築き、城下の整備も行いました。現在の新発田城は新発田氏の居城跡を縄張りにうまく取り込んで造られたものとなっています。城の完成は3代目の宣直の頃までかかりました。

 

 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦では徳川方に味方して上杉遺民一揆を鎮圧し、この功によって所領は安堵されました。その領土は現在の新発田市から新潟市東部(旧水原町、横越町、新津市)、田上町、加茂市付近に及ぶ広大なものでしたが、その多くが湿地帯で未開墾地が非常に多く存在していたそうです。表高は6万石でしたが、実石高は2万石程度しかなかったといわれています。そのため秀勝は治水事業や新田開発に力を注ぎました。その方針は子孫にも受け継がれ、幕末には実石高が20万石ほどまでに増えていたといわれています(のちに表高を10万石に格上げされています)。そのように安定した政治を行ったことからか、溝口氏は豊臣恩顧の大名としては珍しく、幕末まで移封がありませんでした。

 

 新発田藩の基礎を築いた秀勝は慶長15年(1610年)に63歳で没しました。

 

※関連史跡など

→新発田城へ

→大聖寺城へ

→五十公野城へ

→堀部安兵衛の銅像へ

→五十公野茶屋へ

 

   

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