新発田城

撮影日:2005年1月9日

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01・御三階櫓

02・旧二の丸隅櫓

03・御三階櫓

04・御三階櫓

05・旧二の丸隅櫓

06・旧二の丸隅櫓

07・旧二の丸隅櫓

08・本丸表門、辰巳櫓

09・旧二の丸隅櫓

10・本丸表門

11・土塁

12・土橋門跡

13・土橋門跡

14・旧二の丸隅櫓

15・旧二の丸、御三階櫓

撮影日:2004年4〜6月

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16・本丸西面石垣

17・旧二の丸隅櫓

18・旧二の丸隅櫓

19・旧二の丸

20・本丸表門

21・本丸石垣

22・復元御三階櫓

23・御三階櫓

24・旧二の丸

25・本丸辰巳櫓

26・旧二の丸隅櫓、本丸表門、辰巳櫓

27・堀部安兵衛像

28・本丸表門

29・本丸表門内部

30・本丸表門

31・旧二の丸隅櫓内部

32・旧二の丸隅櫓

33・本丸表門

34・本丸石垣

35・旧二の丸隅櫓

36・土橋門跡

37・本丸表門

38・表門石垣

☆名称(別称)

新発田城 (菖蒲城、浮舟城)

☆所在地

新潟県新発田市大手町

☆地図

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☆創築者、創築時期 

   (改修者、改修時期)

戦国時代?、新発田氏? 創築

慶長7年頃〜承応3年(1602〜54年) 溝口秀勝〜宣勝〜宣長 修築拡張

寛文10年〜元禄13年頃(1670〜1700年頃) 修築

延宝3年(1679年) 本丸西櫓を三重に改築し御三階櫓として造営

?〜延享3年(?〜1746年) 大火により焼失した二の丸、三の丸の一部を修築、再建

☆城主

新発田氏 - 溝口氏

☆遺構・復元物

 隅櫓(鉄砲櫓跡に移築)、本丸表門、石塁、堀、城下の清水園庭園、足軽長屋など。隅櫓と大手門は国重要文化財です。現在は城郭の大部分が陸上自衛隊の駐屯地になっています。また、2004年4月5日辰巳櫓が復元され、一足先にお目見えしました。2004年6月には御三階櫓が完成しました。しかし残念なことに御三階櫓の位置の都合上内部の一般公開はされないとのことです。(辰巳櫓、隅櫓、表門内には入れます。)

☆一言歴史

 戦国時代、新発田城は上杉謙信の二十四将の一人新発田氏の居城でした。謙信死後に起こった景勝と景虎の跡目争いに新発田重家景勝方で活躍しましたが、何の恩賞も得られず、それを不服として天正9年4月に反旗を翻しました。景勝は7年の歳月をかけ天正15年10月にやっと落城させることができました。落城後しばらくの間、新発田城は廃墟になっていました。

 

 慶長3年(1598年)、豊臣秀吉の命により蘆名氏を滅ぼした伊達政宗の押さえとして上杉景勝は会津へ移封されました。春日山城には堀秀治が入封し、その与力として加賀大聖寺城より溝口秀勝が6万石(後に10万石)で入城、城を大改修し、江戸時代は溝口氏の治世が続き、豊臣恩顧の大名としては珍しく取り潰しを逃れ明治維新を迎えました。

 

 新発田城は寛文8年(1668年)に大火で焼失し、その後元禄元年(1688年)ごろに再建、この時には石垣まで積み替えたそうで、かなりきれいな切り込みハギで積まれています。しかし、本丸は総石垣ではなく、奥の方は土塁のみだったようです。その後、享保4年(1719年)にも城下の大火により二の丸、三の丸の一部が焼けてしまいますが、再建しました。現在復元中の御三階櫓は延宝3年(1679年)に本丸西櫓を二層から三層に改装して天守代用としたものです。

☆私的見所

 現存する旧二の丸隅櫓、本丸表門、本丸石垣、内堀の一部。三匹の鯱が乗る復元された御三階櫓と辰巳櫓など。特に新発田城の石垣は小粒ながら完成された切込接ぎにより積まれており、非常に美しいです。

 また、城下には藩足軽長屋(国重要文化財)、旧藩主下屋敷の清水園が現存していますのでこちらもどうぞ。

 

※関連・近隣史跡など

→大聖寺城へ

→五十公野城へ

→笹岡城へ

→清水園・足軽長屋・石黒邸

→五十公野茶屋へ

→新発田重家の銅像へ

→溝口秀勝の銅像へ

→堀部安兵衛の銅像へ

→上杉景勝の銅像へ

 

   

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