以下の写真は、クリックすると大きいサイズになります。 |
01・春日山城 |
02・春日山城 |
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03・米沢城 |
04・米沢城 |
05・八幡原史跡公園(vs武田信玄) |
06・八幡原史跡公園(vs武田信玄) |
07・八幡原史跡公園(vs武田信玄) |
08・リージョンプラザ上越 |
09・リージョンプラザ上越 |
10・栃尾市美術館 |
14・秋葉公園 |
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11・栃尾市美術館 |
12・秋葉公園 |
13・秋葉公園 |
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上杉謙信 ・・・享禄3年〜天正6年(1530〜78年)
(うえすぎけんしん、虎千代、長尾景虎、上杉政虎、上杉輝虎、上杉謙信)
戦国武将上杉謙信像です。このたび5〜6箇所目の謙信像に会うことができました。ついでに今迄未アップの写真もリサイズ&追加してみました。謙信の銅像っていっぱいありますね。武将の銅像では、謙信の銅像が日本で一番多いのではないでしょうか?皆様のご意見お待ちしております。
まずは最初から。上杉謙信といえば、春日山城です。謙信の本拠地である春日山城ではイメージ通りの白頭巾を被った姿で川中島のある方を向いています。この上杉謙信の姿は誰もが思い描くイメージ通りで、日本人ならば誰が見ても上杉謙信とわかるでしょう。
そして2番めは、上杉景勝が関ヶ原の戦後に転封させられた米沢城の謙信像です。
この謙信像は、軍神と呼ばれるにふさわしい姿で米沢城本丸跡に鎮座しています。鋭い視線は何を見つめているのでしょうか?
生前に謙信は米沢に行ったことは無いと思いますが、謙信の遺骸は上杉景勝の会津転封時に春日山から会津へ、さらに関ヶ原の戦いの戦後処理で米沢へと運ばれました。米沢城の本丸には祠堂が築かれ、甲冑姿で甕に納められていたといいます。ちなみに米沢藩の藩祖は景勝ではなく、謙信とされています。歴代藩主は命日の3月13日に祠堂を参拝したそうです。
3番目は川中島の謙信像です。長野県の松代城に行く途中で川中島古戦場跡という標識に魅かれて八幡原史跡公園に行った時のものです。書籍や他の歴史系サイトにもよく登場する銅像で、これもおなじみの姿です。古戦場跡ということで武田信玄も友情?出演しています。
謙信は一騎馬を駆り、信玄の本陣に乗り込み斬りかかります。対する信玄は軍配で受けてたつというところですね。結局二人は直接決着をつけることができませんでしたが、結論から言うと、北信濃の領地を手に入れることができた信玄の勝ちなんでしょうね。
4番目は、やはり謙信のお膝元の新潟県上越市にあるリージョンプラザ上越にある謙信像です。なぜリージョンプラザに謙信像を造ったのかは今のところ不明ですが、これもなかなか良い出来です。
このたび、新潟県栃尾市にある栃尾城に行ってきました。ここは謙信が14歳〜18歳までいた城です。その際に市内を回っていた時に2体の銅像を発見したので撮影してみました。まずは、栃尾市美術館前(地図は↓)にあった謙信像です。若かりし頃の姿でしょうか?それとも、川中島での謙信像と同じ場面を想定してのことでしょうか?やはり戦国武将はこのように躍動感あふれる姿が一番カッコイイと思います。
もう一つは、同じ栃尾市の秋葉公園(地図は↓)にある銅像です。こちらも謙信のイメージどおりの姿で鎮座しています。結構大きく造ってありまして、公園内に入ってからすぐ目に付きました。かなり遠くからも謙信像だとわかります。その謙信像の背後に山肌が見えていますが、実は栃尾城です。栃尾市内には昨年秋の中越地震の影響が未だに残っていて、この後に行った栃尾城も崩落などの箇所がかなりあり、地震の怖さを未だに見せ付けられていました。
※関連史跡など