鮫ヶ尾城

撮影日:2004年12月4日

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01・斐太史跡公園入口

02・鮫ヶ尾城鳥瞰図(案内板より)

03・鮫ヶ尾城入口

04・城道

05・景虎清水

06・城道

07・堀切

08・堀切

09・本丸

10・本丸

11・本丸

12・東一の丸

13・城下

14・米蔵

15・本丸、堀切

16・堀切

17・堀切

18・堀切

19・東一の丸

20・東一の丸

21・遠景

 

☆名称(別称)

鮫ヶ尾城

☆所在地

新潟県新井市大字宮内

☆地図

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☆創築者、創築時期 

   (改修者、改修時期)

不明

(永正〜天正時代か?、長尾為景?、上杉謙信?、上杉景勝?)

☆城主

? - 堀江氏 - ?

☆遺構・復元物

郭跡、屋敷跡、堀切、井戸跡など。

☆一言歴史

 築城の年代や歴代城主については不明で、永正年間から天正年間に築城もしくは改修がなされているのではといわれています。いずれにせよ、信濃と越後を結ぶ北国街道の要衝に築かれていることは確かです。

 鮫ヶ尾城が歴史の中で最もクローズアップされたのは、天正6〜8年(1578〜80年)に上杉謙信死後に起こった御館の乱でしょう。ご存知の方も多い謙信の2人の養子、長尾政景の子喜平次景勝(謙信の甥)と北条氏康の七男三郎景虎による跡目争いです。越後を真っ二つに割った争いでした。

 当時の城主は堀江宗親で、当初景虎側についておりましたが、天正7年(1579年)景虎の御館が景勝軍の猛攻により落城し、景虎はわずかな手勢で小田原城へ逃れる途中で鮫ヶ尾城に入城したところ、宗親の裏切りによって逃れる術は無くなったとして妻子とともに自刃しました。この時、景虎は26歳でした。

 

 三郎景虎は天文23年(1554年)生まれで、小田原城主北条氏康の七男です。当初は三郎氏秀という名で、甲・相・駿同盟により武田信玄の人質となりましたが、同盟が破棄となって帰国後、今度は越・相同盟が結ばれ、上杉謙信の養子となりました。謙信もよほどお気に入りだったのか自分の幼名景虎を与えました。氏秀は「関東一の美少年」であったことは有名ですね。そのせいもあってか悲劇の武将として語られることが多いです。ちなみに妻は景勝の妹(姉?)でした。謙信の汚点は自分の後継者を決めておかなかったことでしょうね。

☆私的見所

 米蔵跡には「焼き米」といわれている、御館の乱で鮫ヶ尾城が落城した時に炎上した黒焦げの米粒が見られますが、昭和39年(1964年)に県の文化財に指定されていますので、当然掘ったり持ち帰ったりしてはいけません。ちなみに建築物などは何も残っていません。

 

※関連・近隣史跡など

→春日山城へ

→高田城へ

→栃尾城へ

→信濃飯山城へ

→上杉謙信の銅像へ

→上杉景勝の銅像へ

 

   

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