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新発田城表門前にて その1 |
新発田城表門前にて その2 |
堀部安兵衛 (中山 安兵衛 応庸(まさつね)、武庸(たけつね)、赤穂・浅野家家臣) ・・・寛文10年〜元禄16年(1670〜1703年)
新発田城表門前にある堀部安兵衛の銅像です。表門の内側には溝口秀勝の銅像があり、新発田城にはこの二人の銅像があります。
赤穂浪士の中の一人堀部安兵衛ですが、なぜ新発田藩の武士が赤穂藩に仕えていたのか、理由は知りませんでした(新潟人のクセに)。調べてみるとかなりの苦労人です。
もとは中山安兵衛といい、新発田藩溝口家に仕える身になるはずであったのですが、安兵衛の父である中山弥次右衛門が溝口の殿様とソリが合わずに失脚し自害してしまったことから、家が取り潰しとなってしまうのです。
そこで、安兵衛は江戸、京都などを放浪し、江戸高田馬場で仇討ち決闘で村上庄右衛門ら5人を討ち、それによって、赤穂藩の堀部弥兵衛の目にとまったということなのです。
その後の活躍は、もうご存知の通りかと思います。
※近隣・関連史跡など