撮影日2002年5月27日 以下の写真は、クリックすると大きいサイズになります。 |
01・案内板 |
02・長坂 |
03・二の丸 |
04・長坂門跡(二の門) |
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05・表門(一の門) |
06・本丸 |
07・八幡秋田神社 |
08・新兵具御隅櫓(復興) |
09・本丸西側土塁 |
10・茶室宣庵 |
☆名称(別称) |
久保田城 (矢留城、葛根城) |
☆所在地 |
秋田県秋田市千秋公園 |
☆地図 |
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☆創築者、創築時期 (改修者、改修時期) |
慶長8年〜慶長10年(1603〜1605年)、佐竹義宣 創築 寛永12年(1635年)、佐竹義隆 修築 天明元年(1781年)、佐竹義敦 修築 |
☆城主 |
佐竹氏 |
☆遺構・復元物 |
土塁、堀、本丸、二の丸跡、本丸物頭番所が現存しています。本丸表門と隅櫓が復興されています。現在は千秋公園となっています。 |
☆一言歴史 |
藩祖である佐竹義宣は関ヶ原の戦いに際し中立的な立場をとったことから慶長7年(1602年)に常陸から久保田へと国替えをさせられたため、翌慶長8年(1603年)より築城を開始しました。当初は石高が明確にされておらず、後になってから20万石とされました。結果的には常陸約50万石からの減封とはなりましたが、本来ならば取り潰しという可能性もあったわけであり、減封で済んだのは引退していた義宣の父義重が家康のところへ行き家名存続の嘆願をしたためと伝えられています。
領地が半分となったための財政難と幕府への配慮から久保田城は石垣を使用せずに築かれたと思っていましたが、どうやらそうではなく、石垣普請に精通した者がいなかったためというのも理由の一つらしいです。 事実、縄張りを見るとなかなか堅固なつくりでそれほど容易には落とせる城ではないと思います。そのことは戊辰戦争時に佐竹藩が政府軍につき、奥羽越他藩の攻撃を受けたにもかかわらず落城しなかったことから実証されていると思います。
久保田城は幾度となく火災に見舞われ、その都度再建されて、明治以降も秋田藩庁〜陸軍省の管轄として存城していましたが、明治13年(1880年)に、火災によりほとんどの建物を焼失したことから、残存の建物も払い下げられてしまいました。現在残っている建築物は御物頭御番所のみとなりました。 |
☆私的見所 |
当時、現存建築物があったことを知らなかったので、御物頭御番所を撮影していませんでした。またの機会に行きたいですな。他は本丸の正門である表門が復元されています。また、本丸御隅櫓(新兵具御隅櫓)を模して復興させた櫓が本丸に資料館として存在します。 佐竹氏もやはり元関東人ということで土塁の城なんでしょうね。私自身は好きな城のひとつです。 |
※近隣・関連史跡