赤館城

撮影日2005年10月14日

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01・縄張図

04・土塁

02・主郭

03・主郭

05・帯曲輪

07・帯曲輪

06・土塁

08・帯曲輪

09・主曲輪北側

10・主曲輪、帯曲輪

11・帯曲輪

12・虎口跡

 

☆名称(別称)

赤館城 (赤館)

☆所在地

福島県東白川郡棚倉町大字棚倉

☆地図

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☆創築者、創築時期 

   (改修者、改修時期)

鎌倉時代初期 伊達氏  創築?

改修時期詳細不明

元和10年(1624年)頃、棚倉城築城のため廃城。

☆城主

伊達氏 - 白川結城氏 - 佐竹氏 - 白川結城氏 - 立花氏 - 丹羽氏

☆遺構・復元物

曲輪、土塁、空堀など。

☆一言歴史

 赤館の南面に降る雨は久慈川となって関東を潤し、北面は阿武隈川となって奥州を潤す。標高わずか345mのこの丘陵地は関東東北の分水嶺であり、文化の交差点であり、軍事的要衝だった。
鎌倉初期この赤館は伊達氏が得た飛び地であったが、南北朝以後白川結城氏の一円(直轄地)となった。応仁の乱の時、白川結城氏は京以上の文化を花咲かせた。

 永正10年(1510)戦国大名の佐竹氏は白川結城氏の依上保(大子を含む北茨城県)を支配した。やがて佐竹氏は東館・羽黒館(塙)・流館(近津)等と赤館以南の九南郷館を支配した。
 元亀2年(1571)白河義親は南郷の領土奪回にでて南郷一帯で激戦となった。これを好機と小田原の北条氏が佐竹家臣の下妻城を攻めたので、佐竹は赤館を放棄する和睦を結び、南転して行った。この年は信長が延暦寺を焼き討ちした年であったが、棚倉が戦火に蹂躙された年でもあり、以後毎年のごとく棚倉は戦禍を被った。
 天正3年(1575)佐竹は前年に続いて赤館を攻めたが葦名・結城連合軍が撃退する。この時葦名軍は付近の稲を青刈りした。青刈りはやがて情ある結城の武将斑目兄弟の悲劇となる。戦国無情の感がある。
 天正18年(1590)正月伊達政宗は「七草を一葉によせて摘む根芹」と謳歌した。七草とは白河が入る七郡で、伊達市は分国を挟むことなくこの赤館で佐竹氏と対峙した。今も南麓の川はこの時城攻めに掘ったものと伝えられている。しかし、同年の豊臣秀吉の「奥州仕置」で白川結城氏は消滅し、棚倉は佐竹領地と公認された。

 徳川の天下となると、佐竹は秋田に追われ棚倉は天領となった。
 慶長14年(1609)立花宗茂が5万石赤館城主となった。翌年城の東に遷宮した宇賀神社は、今も棚倉町の氏神と栄えている。関ケ原で敗れて、筑前柳川城からここに移された立花宗茂が最後の城主。
 元和8年(1622)丹羽長重が5万石赤館城主となった。赤館は戦国の館に過ぎないので、5万石に相応しい家臣団を擁する城郭ではなかった。かつて越前等123万石を支配した長重は、2年後から現在の城跡の地に平地城を築城しはじめた。以後の赤館は廃棄された。長重は粗壁の乾かぬうちに白河10万石に転封され去った。


寛永4年(1627)内藤信照が5万石棚倉城主となると築城と同時に、城下町特有の町形につくり、検断や名主を置き経済の中心地とした。
寛永6年(1629)京都徳大寺の玉室和尚が棚倉に流され、沢庵は上山に流された。中世的権利を主張する後水尾天皇の怒りを静めるため家光の乳母斎藤氏(春日局)が参内したが、天皇は皇女興子内親王に譲位するほどの紫衣事件であった。信照は根古屋観音堂の側に小庵を建て玉室を加護した。この草庵跡に「玉室宗珀謹居之跡」の大石碑あり、付近で「南無阿弥陀仏」と書かれた小石が見つかると古老は語る。
 天明3年(1783)天明の飢饉で根古屋村が滅んだ。山上に城のある麓の城下町を根古屋というが赤館の麓にも根古屋村があった。眼下の川は根古屋川といい、根古屋堰は御城水と呼ばれ城堀に清水を注いだ。

 誰が名付けたか赤館と呼ばれ、古代人の足跡の上に、堀跡があり、その上に館跡があり、その上に公園がある。人間の汗と涙と喜びで綴る祖先の生活を私たちに物語ってくれる。現在の平和で活力のある棚倉の幸せを語ってくれる。未来の子孫のここから紺碧の空と四方の緑と眼科の街と川に愛着を感じ、家族を慈しみ町を愛し続けてくれるであろう。赤館は単なる遺跡や公園ではない。棚倉人の心の楯として生き続ける聖地だ。

 

 以上、案内板から丸写しです。郷土史家の澤田周作さんの説明です。

☆私的見所

 棚倉城へ行く途中に赤館城の看板を見かけたので、立ち寄ってみました。

 主曲輪周辺しか見ませんでしたが、遺構は明確に残っています。ここは佐竹氏と葦名・結城氏が奪い合った城として有名なところですが、伊達政宗が関東への進出をかけて快進撃を繰り広げてきた場所でもあります。また、短期間ではありますが、関ヶ原の戦いで西軍に与し、所領を没収された立花宗茂が大名として復活した城というところでもあります。宗茂は赤館城に入部したのち、旧領筑前柳川城へ帰っていくのでした。

 東北で立花宗茂の名前が出てくるとは少々意外ですが、この城には歴史に名を残す偉大な武将がたくさん出てきます。次回来る機会がありましたらもう少し調べて、たくさん散策してみたいと思います。

 

※関連・近隣史跡など

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