白河関

撮影日2006年4月30日

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01・白河関の森全景

02・白河関碑

03・白河関碑

04・案内板

05・白河神社入口

06・古関蹟の碑

07・幌掛の楓

08・参道

09・矢立の松

10・白河神社社殿

11・白河神社社殿

12・古歌碑

13・土塁、空堀

14・土塁、空堀

15・土塁、空堀

16・土塁、空堀

17・関守居館跡

19・土塁、空堀

20・土塁、空堀

21・土塁、空堀

22・土塁、空堀

23・白河神社

24・北門跡

18・縄張図

25・白河関の森案内図

26・白河関の森公園

27・ビジュアルハウス

28・ビジュアルハウス内部

 

☆名称(別称)

白河関 (白河の関)

☆所在地

福島県白河市

☆地図

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☆創築者、創築時期 

   (改修者、改修時期)

4世紀頃 創築か?

改修・移転・廃止時期不明

明治2年(1869年)、全国の関所が明治新政府により廃止

☆城主

大和朝廷

☆遺構・復元物

曲輪、土塁、空堀など。

☆一言歴史

 白河の関は4世紀頃、大和朝廷が蝦夷南下を防ぐために設置されたものです。

 

 ここでいう蝦夷(えみし、えびす)とは、「外国人」、すなわち大和朝廷の支配下ではない民族のことです。この頃はまだ大和朝廷の支配が日本全国に及んでおらず、朝廷に従わない民族がいました。こうした民族を防御するために日本全国に関所が置かれました。

 鈴鹿関、不破関、愛発関を三関といい、のちに逢坂関が愛発関に代わって三関に加えられました。これらの三関より東を関の東ということで関東と呼ばれました。

 これら三関のほかにも関所が設置されていて、この白河関は念珠関、勿来関とともに「奥羽三関」と呼ばれています。

 

 こういったことから古代の関所は軍事目的で設置されていたことがわかりますが、朝廷が蝦夷を制圧したことから軍隊が廃止されてしまいます。

 軍隊が無くなったことによって治安が乱れてしまったため、農民は武装するようになって武士の発生へと繋がるわけですね。

 そこで、中世になると関所の性質も変化し、地方豪族や荘園領主、寺社などが自領を守るためにそれぞれが独自に関所を設けて関銭(通行税)を徴収するようになりました。

 

 さらに時代が進むと商業流通が活発化していきますが、荘園領主や寺社などの関所が関銭を徴収するために交通や商業流通の妨げになっていきました。

 戦国時代末には、織田信長豊臣秀吉によって天下統一事業が進み、独自に関銭を取っていた荘園領主や寺社の勢力を徹底して削ぐことに成功します。この時に関所はほとんどが廃止され歴史の中に埋もれていくこととなっていきます。

 

 徳川家康により国内が平定されると、江戸幕府や全国の諸藩によって再び関所が設置されます。これは、治安維持のために必要だったということです。すなわち、江戸在住の大名が勝手に自領に帰ったり、武器の流通を防ぐために必要だったということですね。

 

 明治政府によって新しい時代がやってくると、関所の役目も終わり、明治2年(1869年)に廃止されました。

 

 現在の白河関は、寛政12年(1800年)に当時の白河藩主松平定信によって古代の関所がどこにあったのか研究されました。定信はこの地こそ古代の白河関であると断定し、古関蹟碑を建立しました。

☆私的見所

 訪れるまでは史跡のページにでも入れようかと思っていたのですが、予想以上に土塁や空堀がはっきりと確認でき、古代の関所の役割からもお城のページに入れるべきと思い、お城のページに入れました。

 何かと白河はよく訪れていますが、小峰城をはじめ史跡が多くて、とても好きな場所です。

 

※関連・近隣史跡など

→白河城(小峰城)へ

→白川城(搦目城)へ

→棚倉城へ

→赤館城へ

→翠楽園・南湖公園へ

→松平定信の銅像へ

 

   

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