大聖寺陣屋

撮影日:2004年7月31日

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P7310351.JPG (121588 バイト)

01・長流亭

02・長流亭

03・庭園

04・長流亭

P7310362.JPG (97882 バイト)

05・江沼神社

P7310366.JPG (81659 バイト)

 06・錦城山

 

☆名称(別称)

大聖寺陣屋(大聖寺城)

☆所在地

石川県加賀市大聖寺錦町

☆地図

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☆創築者、創築時期 

   (改修者、改修時期)

  (大聖寺城)

鎌倉時代(狩野氏?)創築

天正3年以降(1575年以降、戸次右近?拝郷家嘉?溝口秀勝?) 改築

元和元年(1615年) 一国一城令により廃城

  (大聖寺陣屋)

寛永16年(1639年、前田利治) 創築

☆城主

  (大聖寺城)

一向(一揆)衆? - 戸次氏 - 拝郷氏 - 溝口氏 - 山口氏

  (大聖寺陣屋)

前田氏

☆遺構・復元物

 陣屋跡は現在錦城小学校と江沼神社になっており、庭園、長流亭が現存しています。錦城山の大聖寺城は本丸など郭跡が現存しているようです。

☆一言歴史

 大聖寺城は鎌倉時代に築かれたといわれていますが、築城者はこの地方の豪族狩野氏ではないかといわれていますが詳細不明です。南北朝時代を経て戦国時代に入ると加賀一向一揆衆の重要な拠点となります。織田信長が加賀に侵攻し、天正3年(1575年)に攻略し溝口秀勝らが城主となります。溝口秀勝が越後新発田に移封した後は山口宗永が城主となりますが、山口宗永は関ヶ原の合戦時に西軍に与したため金沢城前田利長に攻められ落城、自刃します。

 

 その後は元和元年(1615年)の一国一城令により廃城となるまで加賀前田藩の支城として存在します。

 

 廃城後の寛永16年(1639年)に、金沢城前田利常の三男利治が7万石(文政4年(1821年)10万石に高直し)を分封されて大聖寺城の山麓に陣屋を築いて以降、前田氏が14代続き明治を迎えます。陣屋の後方の城山には人が入るのを一切禁じました。これは外様大名各家が取り潰しにあっていることから、幕府に難癖をつけられないようにする配慮だと思います。

☆私的見所

 現在、山城は錦城山公園として整備されているようです。山麓の陣屋跡は錦城小学校敷地及び江沼神社となっており、小学校の敷地には遺構が見られません。江沼神社境内に庭園が現存し旧態を知ることができます。また建築物では重要文化財である長流亭が現存しています。

今回は山城には行きませんでしたが、次回チャレンジしてみようと思います。

 

※関連・近隣史跡

→金沢城へ

→小松城へ

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→五十公野茶屋へ

→前田利長の銅像へ

→前田利常の銅像へ

→溝口秀勝の銅像へ

 

   

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