前田利長

 

2005年7月23日の前田利長像

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前田利長    ・・・永禄5年〜慶長19年(1562年〜1614年)

 (まえだとしなが、前田利家の長男、母は利家の正室芳春院(まつ)。犬千代、孫四郎、利勝。妻は織田信長の娘・永姫。従三位、肥前守、中納言)

 

 高岡城(富山県高岡市)での前田利長像です。

 父利家が偉大であったため、武将としては見劣りする感じがしますが、そんなことはなく、慶長4年(1599年)、父・利家が病没したため、家督を相続し五大老となって豊臣政権において五大老として徳川家康に対抗することとなります。

 前田氏を服属させようとする家康の謀略によって、偽の家康暗殺事件の嫌疑(加賀征伐)をかけられ、利長は実母のまつを人質として江戸の家康に差し出すことで、難を逃れています。利長が家康に対して敵対心が無いことがわかると、その矛先は会津の上杉景勝へと替わり、関ヶ原の戦いへと発展していきます。

 関ヶ原の戦いにおいては、大聖寺城小松城など西軍側の諸城を攻略し、浅井畷の戦いで丹羽長重を破りました。 この功績によって、西軍に与した弟の利政の領地を与えられ、加賀・越中・能登の合わせて120万石を領有することとなりました。このことから決して凡庸な武将ではなかったことが伺えます。

 

 しかし、豊臣家と徳川家の間で板ばさみとなったことが原因なのか、慶長10(1605年)にまだ13歳の弟利常に家督を譲り、40代半ばで富山城に隠居してしまいます。利常は利長の異母弟(利家の四男)で、利長に子がなかったため養嗣子として迎えられました。

慶長14年(1609年)に富山城は火災により焼失してしまい、高山右近の縄張りによって築かれた高岡城へと移り、慶長19年(1614年)に高岡城で病没しました。享年53歳。

 

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