館林城

撮影日:2006年5月3日

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02・本丸土塁

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01・本丸土塁

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03・本丸

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04・八幡宮

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06・本丸土塁

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05・八幡宮

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07・本丸

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08・旧上毛モスリン事務所

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09・千貫門跡

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11・三の丸土橋門

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10・三の丸土塁

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12・三の丸土橋門

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14・三の丸土橋門、土塀、井戸

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15・三の丸

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16・三の丸土橋門、土塁、土塀、井戸

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13・三の丸井戸

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17・千貫門レリーフ

 

☆名称(別称)

館林城 (尾曳城)

☆所在地

群馬県館林市城町

☆地図

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☆創築者、創築時期 

   (改修者、改修時期)

弘治2年(1556年)または天文元年(1532年)、赤井照康(照光)が築城か?

天正18年(1592年)、榊原康政 改修

文禄2〜4年(1593〜95年)、榊原康政 改修

寛文元年(1661年)、徳川綱吉 改修

天和2年(1682年)、徳川綱吉の子徳松が夭折し、天領となる

天和3年(1683年)、廃城となり破却される

宝永4年〜享保6年(1707〜21年)、(越智)松平清武が再築

文久4年(1864年)、秋元志朝が新御殿 造営

明治4年(1871年)、館林県庁となり、同年栃木県に合併

明治7年(1874年)、火災により御殿などを焼失

☆城主

赤井氏 - 上杉氏(城代長尾氏) - 北条氏 - 榊原氏 - (大給)松平氏 - 徳川氏 - 天領 - (越智)松平氏 - 太田氏 - (越智)松平氏 - 井上氏 - 秋元氏

☆遺構・復元物

本丸と三の丸の土塁が現存しています。そのほか三の丸に城門、土塀、井戸などが復元されています。

☆一言歴史

 はっきりとした築城年はわかっていません。現在は、弘治2年(1556年)か天文元年(1532年)に、赤井照康(照光)が築城したのではないかという説があります。

 この時に白狐が尾を曳いて縄張りを示したという言い伝えがあり、別名尾曳城とも呼ばれています。

 

 永禄5年(1562年)に関東に進出した上杉謙信が攻略し、長尾景長を城主としますが、天正12年(1584年)景長の子顕長が城主の時、北条氏直に攻められ城を明け渡します。北条氏の傘下となった館林城は北条氏規が城主となり、城代を置きます。

 

 北条氏の支配は長くは続かず、天正18年(1592年)豊臣秀吉の小田原征伐の時、石田三成の大軍勢に包囲され開城します。

 北条氏滅亡後は、徳川家康が関東移封となったことで、徳川四天王の一人榊原康政が10万石で城主となります。この時に館林城を改修し、文禄2〜4年(1593〜95年)にかけて城下を整備したようで、江戸時代初頭まで榊原氏が城主でした。

 

 寛永20年(1643年)、榊原忠次が陸奥白河城へ転封となった後は一時番城となるものの、翌正保元年(1644年)に(大給)松平乗寿が6万石で入封し、寛文元年(1661年)に乗寿の子の乗久の時下総佐倉城へ転封となります。代わって将軍徳川家光の五男綱吉が15万石で入封し、城の改修をします。

 延宝8年(1680年)に綱吉が五代将軍となったため子の徳松が城主となりますが、天和2年(1682年)に早世したため天領となり、翌天和3年(1683年)に廃城となり破却されました。

 

 宝永4年(1707年)に甲府城主徳川綱重の二男(越智)松平清武が2万4千石(のち4万4千石)で入封して廃城となっていた館林城を再興しましたが、天守は建てられなかったようです。

 享保13年(1728年)、(越智)松平氏が陸奥棚倉城へ転封となると、太田氏が2代、(越智)松平氏が復帰して3代、井上氏が1代と5万石クラスの大名が目まぐるしく小刻みに入れ替わり、幕末の弘化2年(1845年)に秋元志朝が出羽山形城から6万石で入封しますが、養嗣子の礼朝の時に明治を迎えます。

 

 明治7年(1874年)、火災により御殿などほとんどの建物を焼失し、その後の都市開発などで遺構は数少なくなっていきました。

☆私的見所

かつては関東の城に多かった水堀に囲まれた城でしたが、現在はその面影は全くと言っていいほど残っていません。見所は本丸の土塁と三の丸に復元された土橋門が良いかと思います。今回写真には収めませんでしたが、マニアな方には城沼も良いと思います。

 

※近隣・関連史跡

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