撮影日:2006年7月11日 以下の写真は、クリックすると大きいサイズになります。 |
01・大手門 |
02・案内図 |
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03・城跡碑 |
04・登城口 |
05・西櫓台西堀切 |
06・西櫓台下堀切 |
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07・西櫓台 |
08・西櫓台 |
09・馬場下通路 |
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10・堀切 |
11・馬場下通路 |
12・馬場下通路 |
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13・馬場下通路、竪堀 |
14・馬場下通路、建築物跡 |
15・馬場下通路、階段 |
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16・馬場曲輪 |
17・大堀切 |
18・馬場曲輪 |
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19・馬場曲輪、馬場下通路 |
20・大手虎口 |
22・月の池、大手虎口 |
21・馬場曲輪 |
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23・大堀切 |
25・馬場曲輪、大堀切、大手虎口 |
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24・大手虎口 |
27・大手虎口 |
26・案内板 |
29・大手虎口脇曲輪 |
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28・大手虎口脇曲輪 |
30・大手虎口脇曲輪 |
31・大手虎口 |
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32・三の丸 |
41・縄張り図 |
33・井戸 |
34・案内板 |
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35・大手虎口南側の曲輪 |
36・大手虎口周辺 |
37・日の池 |
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38・石段 |
39・新田神社 |
40・実城 |
42・物見台 |
☆名称(別称) |
金山城 (太田金山城、新田金山城) |
☆所在地 |
群馬県太田市金山町 |
☆地図 |
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☆創築者、創築時期 (改修者、改修時期) |
文明元年(1469年)、岩松家純 創築 天正12〜18年(1584〜90年)、後北条氏領の頃に改修か? 天正18年(1590年)、後北条氏滅亡により廃城 江戸時代、幕府直轄領となり入山が制限される 明治5年(1872年)、明治政府から民間に払い下げられる 明治8年(1875年)、新田神社が創建される 昭和9年(1934年)、金山山頂〜尾根部分にかけて国史跡に指定 |
☆城主 |
岩松氏 - 横瀬氏(のち由良氏) - 後北条氏(高山氏、宇津木氏、清水氏) |
☆遺構・復元物 |
本丸、二の丸、三の丸ほか曲輪、石塁、土塁、櫓台、井戸、虎口などが多数現存及び復原。 国指定史跡。 |
☆一言歴史 |
文明元年(1469年)に、新田氏の一族である岩松家純が重臣横瀬国繁に命じ金山城を築かせました。
岩松氏は足利義純の子である岩松時兼を祖とし、鎌倉時代に新田宗家の新田政義が所領を没収されたため、同じく新田一族であった世良田氏とともに台頭してきました。その世良田氏もまもなく没落し、岩松氏は鎌倉幕府の御家人となりました。南北朝時代には、南朝方についた新田義貞とは同調せず、 北朝足利方につきました。義貞死後は没落した新田宗家をしのぎ、新田荘を支配していました。
室町時代後期の享徳3年〜文明14年(1455〜83年)に起こった享徳の乱や長尾景春の乱以降、岩松氏は領主としての実権を失っていき、明応3年(1494年)に岩松家純が自害したころには、すでに重臣であった横瀬氏が金山城主としての実権を握っていたようです。 戦国時代に入り、足利氏・上杉氏に代わって関東で勢力を伸ばしてきた後北条氏や越後の守護代長尾氏(のち上杉氏の名跡を継ぐ)、甲斐から信濃を侵略し、上野へと領地を広げてきた武田氏との狭間で生き延びてきた横瀬氏でしたが、天正12年(1584年)に桐生城へ移ったため、金山城は後北条氏の城となり高山氏、宇津木氏、清水氏らが城主となりました。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐により後北条氏が滅び、廃城とされました。 |
☆私的見所 |
日没のため、西城の駐車場から実城までしか見学できませんでしたが、壮大な石垣に感激していました。見所はとても多いお城です。石垣は復原されている箇所がほとんどでしたが、関東の石垣の城としてはナンバーワンといった感じですね。近いうちにもう一度行かなければと思っています。 また、この城に関する歴史に関しては、超圧縮して簡単に記しましたが、実際にはもっと複雑でたくさんのエピソードがあります。私の能力では簡潔にまとめることができませんでしたm( _”_ )m。 |
※近隣・関連史跡
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