沼田城

撮影日:2003年12月15日

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01・沼田公園、土塁

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02・本丸、復興鐘楼

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03・復興鐘楼

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04・本丸隅櫓台

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05・隅櫓台、堀切

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06・捨て曲輪

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07・堀切、復興鐘楼

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08・隅櫓石垣

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09・隅櫓石垣

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10・案内板、正保絵図

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11・天守跡

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12・沼田城遠景です。

 

☆名称(別称)

沼田城 (倉内城、鞍打城、霞城)

☆所在地

群馬県沼田市西倉内町

☆地図

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☆創築者、創築時期 

   (改修者、改修時期)

天文13年(1544年、沼田顕泰) 創築

天正19年〜慶長2年(1591〜97年、真田信之) 改築

元禄2年(1689年) 幕命により廃城

元禄16年(1703年、本多正永) 修築再興

☆城主

沼田氏 - 藤田氏(上杉氏城代〜武田氏帰属) - 真田氏 - 滝川氏(織田氏城代) - 矢沢氏(真田氏城代) - 猪俣氏(北条氏城代) - 真田氏 - (真田氏改易後一時廃城) - 本多氏 - 黒田氏 - 土岐氏

☆遺構・復元物

石塁、土塁、空堀、郭跡、復興鐘楼。

☆一言歴史

  名胡桃城と同じく、北関東と越後、信濃、会津に通じる交通の要衝であったため、上杉氏、武田氏(真田氏)、北条氏が争う激戦区でした。まず上杉謙信が永禄3年(1560年)に攻略し関東進出の重要地とします。創築の沼田氏は城主の座は守っていきますが嗣子沼田朝憲を殺害し一族に追われて会津へ逃亡します。

 

 天正8年(1580年)に上杉景勝の城代であった藤田信吉が城代として在城しますが、武田勝頼の家臣真田昌幸に帰属します。沼田景義が天正9年(1581年)に城を奪回しようとしますが真田昌幸によって謀殺されます。天正10年(1582年)、武田氏の滅亡により織田信長の家臣滝川一益が厩橋城に、弟の益氏が沼田城に入ります。同年本能寺の変により織田信長横死後真田昌幸に城が返され、矢沢頼綱が城代となります。その後北条氏の再三の攻撃に耐えますが、天正17年(1589年)豊臣秀吉の仲裁により名胡桃城は真田氏に、沼田城は北条氏に帰属することになります。沼田城には北条氏の城代猪俣邦憲が入りますが、猪俣邦憲は真田氏の名胡桃城を奪ったために、天正18年(1590)小田原討伐となります。

 

 北条氏降伏後、再度真田昌幸に沼田城は返され昌幸の長男信之が入り、天正19年〜慶長2年(1591〜1597年)にかけて沼田城を改築し関東で唯一の五層の天守を作りました。

天和元年(1681年)信澄の時、失政により改易され、その後城は破却されました。

 

 以後、元禄16年(1703年)に本田氏が入り沼田城を復興しますが、天守や櫓は再建せず、黒田氏、土岐氏と在城し、天守は再建されないまま明治維新を迎えました。

☆私的見所

崖際に残る隅櫓の石垣と復興の鐘楼、土塁、空堀もよく残っています。

 

※近隣・関連史跡

→名胡桃城

→太田金山城へ

→上田城へ

→松代城(海津城)へ

 

   

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