直峰城

撮影日:2004年6月16日

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01・城山入口

02・添景寺

03・直峰城入口

04・郭

05・城道

06・城道

07・直峰城案内板その1

08・直峰城案内板その2

09・登城口

10・城道

11・城道

12・伝風間信濃守館跡

13・館跡

14・城道

15・城道

16・城下

17・本丸

18・郭、大ケヤキ

19・郭

20・大堀切

21・虎口

22・館跡

23・アジサイ

24・城道

25・案内棒?

 

☆名称(別称)

直峰城

☆所在地

新潟県東頚城郡安塚町安塚

☆地図

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☆創築者、創築時期 

   (改修者、改修時期)

南北朝時代 風間信昭 創築?

堀氏改易時廃城

☆城主

風間氏 - 吉田氏 - 小日向氏 - 樋口氏 - 堀氏

☆遺構・復元物

本丸、土塁、堀、郭、屋敷跡など。

☆一言歴史

 直峰城は南北朝時代に新田義貞を総大将とした南朝方の武将風間信濃守信昭の居城でした。創築時期は不明ですがおそらく風間氏が居城したこの頃ではないかと推測されます。なお、越後国内も勢力を二分して争い、上越地区の豪族は南朝側に、下越地区(新潟県の新潟市以北)の豪族は北朝足利尊氏側につき、激しい戦闘があったと思われます。新田義貞が戦死し南朝軍の敗戦が濃厚になっていきます。風間信昭も歴史上から姿を消したところをみると戦死したのではないかと思われます。

 時が下って、戦国時代には守護代長尾為景が勢力を伸ばし、子の長尾景虎によって平定されるまでは越後国内は各地の豪族がしのぎを削り争っていました。

 再び直峰城が歴史上でクローズアップされるのは、上杉謙信死後の御館の乱でした。謙信が跡目を決めずに急死したことから越後国内は大混乱となり謙信の姉の子景勝と北条氏出身の景虎という二人の養子によって家督相続争いがおきます。当初武田氏と北条氏のバックボーンがあった景虎側が優勢であったようですが、武田氏と景勝が北信濃割譲によって景勝側に寝返り、北条氏が積雪のため三国峠を越えられないなどの理由により、景虎側は不利になっていきます。

 直峰城も当初景虎側についていましたが、策略によって城主の長尾景明は自刃します。直峰城は犬伏城とともに春日山城〜坂戸城間を結ぶ三国街道上の中継地点でしたので、景勝側の直峰城獲得は戦略上非常に有利な状況となりました。

 御館の乱は鮫ヶ尾城にて景虎が自刃し終結しました。直峰城は御館の乱で戦功のあった樋口兼豊直江兼続の父)に与えられ直峰衆と呼ばれました。

 上杉景勝の会津移封後、越後は堀秀治の所領となります。春日山城には秀治が入り、ここ直峰城には家臣の光親が入りますが、慶長15年(1610年)堀氏除封により直峰城は廃城となります。

☆私的見所

 城郭は城山と地図には書いてあります。国道などには直峰城跡という表示があり、麓近くまでは行けるのですが、そこからの案内が乏しいので住民の方に聞くといいと思います。

 直峰城自体はよく整備されていて(麓の案内が乏しい以外)、郭や堀切などもよく残っています。今回登城はしませんでしたが近隣に虫川城があります。

 

※関連・近隣史跡など

→春日山城へ

→鮫ヶ尾城へ

→高田城へ

→上杉謙信の銅像へ

→上杉景勝の銅像へ

→直江兼続の銅像へ

 

   

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