高城

撮影日:2005年5月22日

以下の写真は

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01・登城口

02・案内板

03・案内板

04・野口源左衛門の墓

05・野口源左衛門の墓

06・ヒメサユリ群生地

07・中腹の見晴らし場所

08・礎石?

09・ヒメサユリ

11・城道

10・城道

12・牛窪の砦

13・牛窪の砦

18・本丸

14・堀切

15・堀切

16・堀切

17・堀切

19・本丸

20・本丸

21・案内板

22・長尾景久の肖像画

23・高城案内図

24・本丸からの眺望

25・堀切

26・堀切

27・本丸

28・堀切

29・二の丸

30・堀切

31・三の丸

32・堀切

33・堀切

 

☆名称(別称)

高城

☆所在地

新潟県三条市大字森町 (旧南蒲原郡下田村)

☆地図

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☆創築者、創築時期 

   (改修者、改修時期)

室町時代中期(1400年)頃 長尾豊景 創築か?

改修時期不明

永禄8年(1565年)に栃尾城主本庄氏に攻められ落城し、そのまま廃城か?

☆城主

(下田)長尾氏

☆遺構・復元物

郭跡、堀切、土塁など。

☆一言歴史

 史料不足のため、麓の長禅寺前の案内板よりほぼ丸写しm(_"_)m。

 

 高城は、戦国時代に下田郷を支配し森町の元町を根拠地としていた在地豪族下田長尾氏の居城でした。

 高城初代城主は長尾高景の弟豊景であったと伝えられています。二代目の城主は豊景の子遠江守景久で、下田長尾氏の菩提寺である高城の麓にある長禅時に父子の位牌が安置されてるとのことです。

 

 高城は、標高373m、東西に尾根が走り、南北は急斜面になっており、きわめて険しい天険をなしています。ここに東西約500m、南北約100mにわたって尾根を削ったり、堀を割ったりして造り出した曲輪、空堀、土塁や生活に必要だと思われる水舟などの遺構が歴然と残っています。

 

 高城の落城については、景久の子と伝えられる藤景が、川中島合戦の際に上杉謙信の戦略を批判したことから嫌われ、村上城(当時は本庄城)主本庄繁長に春日山城で謀殺されてしまいます。

 この報を聞き、藤景の臣、長尾外記入道が遺臣とともに高城に篭城しましたが、栃尾城主本庄氏の猛攻により永禄8年9月に落城したと伝えられています。長尾外記入道は中浦に逃れそこで敗死し婦女子は鹿熊に逃れ生涯を送ったといわれています。

 

 また、本丸にある案内板には、次のような説明がありました。字が消えているところで不明な箇所には?を入れています。

 

 この城は室町時代中期(1400年頃)に造られ戦国時代(1568年)まで続きました。

 初代長尾豊景は足利将軍の命で?度も関東へ出???により相模国河入郡(厚木市)を賜った。

 二代景久は、産業を興し森町に節季市を設け信仰?篤く、長禅寺を再興し秀翁寺を建立した。

 三代平右ェ門尉は、加茂市、長岡市に領地を広げ大いに民力を養った。

 四代景行は、長岡栖吉城主房景と五十嵐豊六との五十嵐川の鮭取りの争いを仲裁した。

 五代藤景は、川中島合戦に左脇備えと??参戦し謙信の危急を救ったが、酒宴の席で度々このことを持ち出し謙信に殺された。

 家老外記入道興里は、兵を集め戦ったが遂に力つき討死した。時に永禄11年(1568年)春浅い頃であった。

 城は室町時代をそのまま残し前後三条の空堀と数条の畝形阻塞で守られている。

 

 麓の案内板と本丸の案内板では、多少の違いはありましたが、ほぼ同様のことが書かれていました。もう少し勉強しなければなりませんねm(_"_)m。

☆私的見所

 ヒメサユリの群生地として有名な高城です。城跡として見ている人はほとんどいないかもしれませんが、本丸周辺には深く掘り下げられた何条もの堀切がはっきりと残っていて結構見所は多いです。

 行った時期がちょうどヒメサユリが咲き始める時期で登山者が大勢いました。ヒメサユリが咲くのは6月初旬ということでしたので一週間ほど早かったことになります。

 なお、この高城のある旧下田村は現在三条市と合併してしまいましたが、全国の五十嵐姓の祖であるといわれている五十嵐氏の館跡もあります。既に訪れているので、公開をお楽しみに?

 再度訪れる際には、畝状阻塞も確認したいと思っています。

 

※近隣・関連史跡

→上杉謙信銅像のページへ

→栃尾城へ

→五十嵐館へ

 

   

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