撮影日:2005年3月19日 以下の写真は、クリックすると大きいサイズになります。 |
201・工事箇所案内 |
202・一文字門 |
203・一文字門石垣 |
204・七曲道 |
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205・四ツ御門 |
206・四ツ御門 |
207・南多聞櫓脇〜御鐘門 |
208・探索図 |
209・四ツ御門 |
210・御鐘門 |
211・御鐘門 |
212・御鐘門 |
213・御鐘門 |
214・四ツ御門〜三の丸 |
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215・二の丸東門 |
216・二の丸東門、御鐘門 |
217・黒門、本丸石垣 |
218・平櫓 |
219・本丸石垣 |
221・埋門 |
220・本丸石垣東面 |
222・帯郭 |
223・冠木門 |
224・冠木門、本丸石垣東側 |
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225・本丸石垣東側、冠木門 |
226・巽櫓 |
227・本丸石垣東南側 |
228・本丸石垣西南側、天守台 |
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229・天守台 |
230・本丸石垣西側 |
231・本丸 |
232・本丸 |
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233・出櫓、二の丸 |
234・本丸西北隅櫓 |
235・本丸石垣西側 |
236・三の丸、四ツ御門 |
237・三の丸、四ツ御門 |
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238・近世城主居館 |
239・村上城本丸遠景 |
240・臥牛山遠景 |
241・慶長2年瀬波郡絵図 |
242・元禄村上城絵図 |
撮影日:2003年8月26日 以下の写真は、クリックすると大きいサイズになります。 |
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101・出櫓跡、本丸石垣 |
102・本丸石垣 |
103・冠木門跡 |
104・本丸 |
撮影日:2003年10月3日 |
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105・冠木門跡 |
106・冠木門石垣 |
107・出櫓跡 |
108・二の丸石垣、出櫓跡 |
☆名称(別称) |
村上城 (舞鶴城、臥牛山城) |
☆所在地 |
新潟県村上市大字本町 |
☆地図 |
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☆創築者、創築時期 (改修者、改修時期) |
創築者、創築時期不明 室町時代、本庄氏改築か? 慶長3年(1598年) 村上頼勝 改修 元和4年(1618年) 堀直竒 改修 寛文元年〜5年(1661〜65年) 松平直矩 改修 |
☆城主 |
(小泉氏?) - 本庄氏 - 村上氏 - 堀氏 - 本多氏 - 松平氏 - 榊原氏 - 本多氏 - 松平氏 - 間部氏 - 内藤氏 |
☆遺構・復元物 |
臥牛山上の本丸、二の丸、三の丸の石垣、天守台が完存し、山麓の一文字門の石垣の一部などが現存。また、中世本庄城の頃の郭、土塁、竪堀も現存しています。城跡は昭和32年(1957年)県史跡、平成5年(1993年)国史跡に指定されています。 |
☆一言歴史 |
築城者、築城時期ともに不明ですが、城としては鎌倉時代から存在したという説もあります。 これは文治3年(1187年)に本庄氏の祖である秩父氏が当時小泉庄と呼ばれていた村上の地頭となり、その後、本庄氏と色部氏に分かれ、さらに、文永5年(1268年)に色部氏が小泉庄加納(現平林)に下向した頃に本庄氏も現在の村上へ移ったものと考えられている(おしゃぎり会館パンフレットより)ことからの説と思われます。 おおむね室町時代に当時は本庄と呼ばれたこの地の豪族本庄氏の築城と見てよさそうです。当時は本庄城と呼ばれていました。 戦国時代には城主である本庄繁長が上杉謙信の支配下にいましたが、永禄11年(1568年)に突如武田信玄に味方し、謙信に背くものの、翌永禄12年(1569年)和睦します。以後は上杉氏の与力となります。謙信死後に起こった御館の乱の時には、景勝側につき新発田氏征伐において活躍します。ちなみに慶長2年(1597年)に描かれた有名な「村上ようがい」絵図は本庄氏在城の頃のものです。 慶長3年(1598年)上杉景勝の会津転封に伴って本庄氏も会津へ行き、福島城の城代となります。景勝転封ののち春日山城には堀秀治が入り、本庄城には丹羽長秀に仕えていた村上頼勝が与力として加賀小松城から9万石で入りました。頼勝は城を拡張、8基の櫓を新造し、城下町を整備しました。この時に、本庄城から村上城と改めましたが、元和3年(1617年)頼勝の死後跡を継いだ忠勝の代になって改易されます(幕府による陰謀説あり)。
元和4年(1618年)替わりに村上城に入ったのは堀直竒でした。直竒は大坂の陣での功績で加増を受け、長岡城から10万石で移封してきました。村上城が現在の姿になったのはこの時でした。従来の山上の本丸には三重の天守を築き、山麓に居館を建造しました。武家屋敷も堀で取り囲んで、城下町の整備も行いました。 しかしながら、堀氏も直竒の孫直定で断絶し、本多忠義を経て15万石の高禄で松平直矩が入封します。この時に正保絵図に見られる三重天守を造り替えましたが寛文7年(1667年)に焼失し以後再建されませんでした。 直矩が姫路へ移封となるとその後は城主がめまぐるしく替わり、享保5年(1720年)内藤氏が入封してやっと城主が定着し、明治まで続きました。
戊辰戦争時には長岡藩と共に奥羽越列藩同盟に加わりましたが、勤王・佐幕の二派に別れ、激しい論争が行われたようです。まとまりのない藩士たちには勝ち目はなく、庄内藩の援護での奮闘むなしく慶応4年(明治元年、1868年)に落城しました。 |
☆私的見所 |
近世城郭として存続した山城です。山麓の居館部分はほとんどが失われていますが、山上の要害部分は石垣が完存していて、圧倒されます。そして、本丸からの城下町と日本海の眺めは最高で、私は新潟県内で一番好きな城です。 冬期と雨の日は滑りやすかった七曲通もかなり整備され、上りやすくなりました。 また、市内には武家屋敷も数軒残されており、重要文化財の旧若林家住宅のほか、皇太子妃雅子様の小和田家と縁戚関係にある旧嵩岡家などが移築、復原されていますので、時間のある方はどうぞ。 それから、色部氏居城の平林城もクルマで15〜20分くらいのところにあって、こちらも必見です。 |
※近隣・関連史跡など