武田信玄 (友情出演:上杉謙信)

 

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01・甲府駅前

02・甲府駅前

03・甲府駅前9

04・甲府駅前

05・甲府駅前

06・川中島

07・川中島

08・川中島

 

武田信玄        ・・・大永元年〜元亀3年 (1521〜72年)

(たけだしんげん、武田信虎の子、幼名勝千代、太郎、元服して晴信、従四位下、左京大夫、大膳大夫、信濃守、甲斐・信濃守護)

 

 今年再び大河ドラマに登場(主役ではないですが・・・)の武田信玄像です。わが越後の英雄上杉謙信との5度に渡る川中島の合戦はとても有名です。01〜05までの写真はJR甲府駅前のもので、信玄の本拠地躑躅ヶ崎館と甲府城を訪れたときに撮影したものです。また、06〜08の写真は上杉謙信の銅像のページにも出てきました川中島古戦場跡の八幡社の銅像です。

 武田信玄は大永元年(1521年)に甲斐守護の武田信虎の嫡男として生まれました。天文5年(1536年)に元服して、武田氏の通字「信」に将軍足利義晴から一字もらい晴信と名乗りました。

 初陣は、天文6年(1537年)の信濃海ノ口城攻めでした。この時、父信虎率いる武田軍は平賀城主平賀成頼が立て篭もる海ノ口城を攻めあぐねました。撤退しようとする信虎に殿を願い出て、油断していた篭城勢を撃破したといわれています。信虎は長男の晴信を疎んじ、次男の信繁を寵愛していたらしいということはよく知られていることですが、自分が落とせなかった城を晴信が落としたということで、とても不機嫌になったことでしょう。自分の嫡男に、いくら殿を願い出たからといって普通は任せないとは思いますが、信虎にとっては、晴信があわよくば討ち死にしてもいいとでも思っていたかもしれませんね。


 天文10年(1541年)、武田氏の重臣である板垣信方や甘利虎泰、飯富虎昌らを味方につけた晴信は、ついに父信虎を駿河へ放逐し、念願の甲斐領主となります。その後の活躍はご存知のとおり目覚しいものでした。周囲の大名は、今川義元、北条氏康、上杉謙信といったつわものばかりでしたが、彼らと戦いながらも次第に領土を拡大していきました。最大領域は甲斐のほかに、駿河、信濃、上野、遠江、三河、美濃、飛騨、越中に及びました。

 

 晴信は、永禄2年(1559年)に剃髪して信玄と名乗ります。

 元亀3年(1572年)、病に冒されていた信玄は、織田信長との対戦に向けて躑躅ヶ崎を発ち、遠江の三方ヶ原で徳川家康を破り、さらに西へと向かいますが、病が悪化したため甲府へ向けて引き返し、信州駒場にて53歳で亡くなりました。


 現在まで信玄が民衆に慕われ続けてきたのは、軍事だけではなく、民政でも多くの実績を残し、完成度の高い領国経営を行なったからでしょうね。
 

※関連・近隣史跡

→躑躅ヶ崎館へ

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