撮影日:2004年4月2日 以下の写真は、クリックすると大きいサイズになります。 |
01・松代城遠景 |
02・天守台、井戸 |
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03・本丸北不明門 |
04・北不明門表門 |
05・北不明門表門 |
06・北不開門櫓門 |
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07・北不明門石垣 |
08・北不明門狭間 |
09・本丸 |
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10・北不明門 |
11・天守(戌亥櫓)台 |
12・本丸の様子 |
13・本丸西面石垣 |
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14・本丸北不明門 |
15・天守(戌亥櫓)台 |
16・本丸太鼓門 |
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17・太鼓門枡形 |
18・太鼓門石垣 |
19・太鼓門全景 |
20・二の丸南門跡 |
21・内堀、本丸東面石垣 |
22・天守台、北不明門 |
☆名称(別称) |
松代城 (海津城、待城、松城) |
☆所在地 |
長野県長野市松代町 |
☆地図 |
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☆創築者、創築時期 (改修者、改修時期) |
永禄3年頃(1560年頃、武田信玄) 創築 (当初は海津城と呼称) 慶長3年(1598年、田丸直昌) 改修 慶長5年(1600年、森忠政) 改修 (待城と改称) 正徳元年(1711年、真田幸道) 改修 (松代城と改称) |
☆城主 |
武田氏(城代) - 織田氏(城代) - 上杉氏(城代) - 田丸氏 - 森氏 - 松平氏(城代) - 松平氏 - 酒井氏 - 真田氏 |
☆遺構・復元物 |
本丸石垣、天守(戌亥櫓)台、内堀が現存しています。最近、整備され門や土塁などが復元され非常にきれいになりました。 (ちょっとキレイにしすぎ?で殺風景な気がするのは私だけでしょうか?) |
☆一言歴史 |
信濃に進出してきた武田信玄が越後の上杉謙信に備えて、川中島に近いこの地に城を築きました。創築時期の詳細は不明ですが永禄3年(1560年)頃までには完成していたようで当初は海津城と呼ばれていました。
日本でもっとも有名な戦いのひとつである川中島合戦はここからかなり近いところで5回も行われました。そのうちでもっとも有名なのが4回目の八幡原の戦いです。信玄は鶴翼の陣をしき、啄木鳥戦法で謙信をおびき出そうとしますが、謙信はその啄木鳥戦法を読んでおり、車懸りの陣で信玄に襲い掛かります。両者合わせて死者8000人という死闘を繰り広げました。 江戸時代には、よく前半は謙信の勝ち、後半は信玄の勝ちなんて言われることもありますが、ただ戦力を消耗しただけの謙信に対し、信玄は北信濃の村上義清を追い出し、領土拡張を達成していますので、間違いなく信玄の勝ちですね。明確な勝敗がついていないなどと言う人は戦略と戦術の違いがわからないということです。戦術で勝敗がつくかどうかは問題ではなく、戦略として北信濃の領有を達成できるかどうかが問題だったのです。
松代城は信玄・謙信の死後、織田信長や上杉景勝の支配下に置かれましたが、景勝の会津移封後は越後の松平忠輝の城代が置かれます。忠輝が元和3年(1617年)に改易されると以後松平忠昌、酒井忠勝と城主が変わり元和8年(1622年)真田昌幸の長男信之が信州上田より10万石で入封すると以後世襲して明治に至ります。 |
☆私的見所 |
野面積の天守台が良いと思います。また、北不明門など城門が復元されて以前より整備され大変すっきりしました。 |
※関連・近隣史跡
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