岩槻城

撮影日:2006年12月20日

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01・案内図

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02・案内図

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03・案内図

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04・東武鉄道きぬ号車両

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05・岩槻公園の池

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06・城跡碑、土塁

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07・土塁、空堀

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08・土塁、空堀

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09・堀障子説明

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10・堀障子

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11・黒門

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12・黒門

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13・裏門

 

☆名称(別称)

岩槻城 (白鶴城、浮城、竹束の城)

☆所在地

埼玉県埼玉県さいたま市岩槻区太田3

☆地図

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☆創築者、創築時期 

   (改修者、改修時期)

長禄元年(1457年) 太田道灌 創築

大永2年(1522年)以降 北条氏により改修か?

天正18年(1590年)以降 高力清長 改修

慶長14年(1609年)火災により焼失、高力忠房が再建

安永4年(1775年)火災により焼失、大岡忠喜が再建

明治4年(1871年)7月 岩槻県庁となる

同年11月 埼玉県に合併

☆城主

太田氏 - 北条氏(城代) - 高力氏 - 阿部氏 - 板倉氏 - 戸田氏 - 松平(藤井)氏 - 小笠原氏 - 永井氏 - 大岡氏

☆遺構・復元物

黒門(大手門移築復元)、裏門、新曲輪、鍛冶曲輪、虎口、空堀、土塁(県指定史跡)

☆一言歴史

 岩槻城は古河公方足利成氏に備えるために太田道灌により築かれました。のちに養子である太田資家が城主となりましたが、その子資頼が城主の時、北条氏綱に攻められて落城しましたが、のち太田資正の頃に岩槻城を奪回して北条氏康に反抗しました。

 関東の武将のほとんどが北条側に降った後も、屈せず上杉憲政や養子となった上杉輝虎(謙信)に仕えていましたが、永禄7年(1564年)北条氏康の策略により、資正の子氏資が氏康の婿養子になってしまったため、資正は常陸の佐竹氏を頼り片野城に移り、以後は北条氏の領国に組み入れられたようです。遺構の堀障子などから後北条氏流の築城術が見られますので、その頃に城の改修があったのではないかと推測されます。

 天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原討伐の際には浅野長政、本多忠勝の攻撃により落城しました。同年徳川家康が関東に移封となると、岩槻城には高力清長が2万石で入り、城を改修しました。

 その後城主は阿部氏、板倉氏、戸田氏、藤井氏、小笠原氏、永井氏と譜代大名が入り、宝暦6年(1756年)に大岡氏が入封するとその後は世襲して明治を迎えました。

☆私的見所

 門などの建築物もいいですが、新曲輪、鍛冶曲輪の空堀、土塁などが見所だと思いますが、城跡としての景観は今ひとつです。

 

※近隣・関連史跡など

→忍城へ

→川越城へ

 

   

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