撮影日:2006年9月24日 以下の写真は、クリックすると拡大します。 |
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01・水城公園 |
02・C57 |
03・C57 |
04・東小路冠木門 |
05・案内図 |
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06・復興御三階櫓 |
07・復興櫓台 |
08・堀、東門 |
09・堀 |
10・東門 |
12・東門 |
11・本丸 |
14・本丸土塁 |
13・時鐘 |
17・伝・進修館表門 |
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15・本丸土塁 |
16・本丸土塁 |
19・礎石? |
21・松平氏隠居所跡碑 |
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18・本丸土塁 |
20・土塁、土塀 |
22・御三階櫓跡 |
☆名称(別称) |
忍城 |
☆所在地 |
埼玉県行田市本丸 |
☆地図 |
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☆創築者、創築時期 (改修者、改修時期) |
延徳2〜3年(1490〜91年)、成田親泰 創築か? (この間の改修不明) 寛永16年(1639年)、阿部忠秋 改修 元禄14年(1701年)、阿部正武の時に御三階櫓、二階櫓2棟、帯曲輪などを造営 明治4年(1871年)、廃藩置県により忍県庁となるが、数ヶ月で埼玉県に合併される 明治6年(1873年)、城内建築物が払い下げられ、御三階櫓、二の丸御殿などが取り壊される 大正年間以降、行田市の市街地化に伴い城地が破壊され、減少していく 昭和27年(1952年)、鐘楼を諏訪曲輪に移築 昭和38年(1963年)、城跡が県旧跡に指定される 昭和63年(1988年)、本丸に御三階櫓、城門、土塀などを復興 |
☆城主 |
成田氏 - 松平氏(深溝) - 松平氏(東条) - (一時番城) - 酒井氏 - 松平氏(大河内) - 阿部氏 - 松平氏(奥平) |
☆遺構・復元物 |
本丸、諏訪曲輪の土塁、大沼が現存しています。その他、御三階櫓と城門、堀などが復興、整備されています。 |
☆一言歴史 |
忍城の築城時期には諸説あるようですが、山内上杉氏の家臣であった成田親泰が、延徳元年(1489年)に扇谷上杉方の忍大丞を滅ぼして、翌延徳2年〜3年(1490〜91年)にかけて城を築いたのが始まりではないかといわれています。このまま、成田氏は武蔵国忍を所領としていましたが、のちの永禄4年(1561年)に、子の長泰は関東管領上杉謙信と対立し、小田原の北条氏康に臣従します。
天正18年(1590年)には、豊臣秀吉の小田原攻めに際して、有名な石田三成の水攻めを受け、徹底抗戦の構えを取ります。この時、城主の成田氏長(成田長泰の長男)は小田原城に参陣していて不在ながらも、氏長夫人の太田氏(太田資正の娘)や氏長の従兄弟成田長親を城代として、その攻撃に耐えます。石田三成や長束正家は、最初力攻めで忍城を攻撃しますが、忍城を巡る沼地に足元を取られてしまうために、秀吉お得意の水攻めを行なって城を孤立させることにします。 三成は、忍城の南にある丸墓山古墳に陣を置き、古墳の南北に全長七里(約28km)にわたる堤防を築いて利根川や荒川から水を引き込んで忍城を囲うというものでしたが、攻撃の最中に豪雨となり、工事もずさんであったのか、堤防が決壊してしまいます。そのために大量の水が逆流したことで味方に損害を出してしまいます。 それでも忍城に篭る成田勢は、小田原城に篭城していた城主氏長の開城勧告によってようやく開城しました。
同天正18年(1590年)、徳川家康が関東移封となったことから、忍城には松平家忠や忠吉が城主となりますが、松平忠吉が慶長5年(1600年)に尾張清洲城へ移封となったあとは一時番城となります。 寛永3年(1626年)には酒井忠勝や松平信綱らが城主となります。
寛永16年(1639年)に阿部忠秋が城主となってからは、阿部氏が9代にわたって続きました。阿部氏は幕府の老中など要職に着く者が多かったためか5万石→6万石→8万石と石高が上がっていき、元禄7年(1694年)正武の時に10万石にまで所領を増やしていきます。 元禄14年(1701年)には、幕府の許可を得て御三階櫓や曲輪などを造営し、城下町の整備も行なわれました。
文政6年(1823年)、阿部正権が陸奥棚倉城へ移封となり、代わって伊勢桑名城から松平忠堯が入って城主となりました。このまま松平氏が5代続き、明治を迎えます。 |
☆私的見所 |
本丸の土塁と言いたいところですが、それよりも少し離れたさきたま古墳群の丸墓山古墳から見た忍城が良いと思います。石田三成が全長七里(約28km)にも及ぶ堤防(通称石田堤)を築き、水攻めを行なった場所です。 これは三成が豊臣秀吉の水攻めを真似て行なったことになっていますが、実は秀吉の命令で行なったが、失敗したので三成が罪をかぶったと私は思っています。 |
※近隣・関連史跡など
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