撮影日:2008年5月18日 以下の写真は、クリックすると大きいサイズになります。 |
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18・模擬門 |
19・門跡 |
20・搦手口土塁 |
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21・侍屋敷 |
22・屋敷跡 |
23・搦手口土塁 |
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24・大手道 |
25・二の曲輪 |
26・二の曲輪 |
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27・堀切 |
28・堀切、稲荷神社 |
29・金上稲荷神社 |
30・堀切 |
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31・本丸 |
32・本丸 |
33・本丸 |
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34・出丸 |
35・出丸 |
36・石垣 |
37・竪堀 |
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撮影日:2004年4月11日 以下の写真は、クリックすると大きいサイズになります。 |
10・出丸の石垣 |
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01・案内図 |
02・鶴ヶ沼 |
03・侍屋敷跡 |
04・搦手口土塁 |
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05・竪堀 |
06・本丸 |
07・本丸からの眺め |
08・出丸 |
09・出丸の石垣 |
11・水の手曲輪 |
12・井戸 |
13・西側の城道 |
14・阿賀野川 |
15・城道 |
16・石垣 |
17・津川城遠景 |
☆名称(別称) |
津川城 (麒麟山城、狐戻城) |
☆所在地 |
新潟県東蒲原郡津川町 |
☆地図 |
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☆創築者、創築時期 (改修者、改修時期) |
建長2年(1250年)金上遠江守 創築? 建長4年(1252年)藤倉盛弘 創築? |
☆城主 |
藤倉氏、のち金上氏に改姓 - 蒲生氏(城代) - 上杉氏(城代藤田) - 加藤氏(城代) |
☆遺構・復元物 |
山上の石垣、竪堀、井戸跡、屋形跡などが現存。 |
☆一言歴史 |
(案内板では) 建長4年(1252年)会津葦名の一族藤倉盛弘が麒麟山の天険を利用して築いたこの城は山が険阻のため狐も戻ることができないというのでこの名がつけられた。その子孫である金上氏が永い間城主として越後国の備えを堅くした。15代の盛備(もりはる)は特に文武の道に秀で芦名家使者として京に上った際豊臣秀吉と和歌の問答をして名を挙げ従五位下遠江守に任せられた。 天正17年(1589年)6月芦名義弘は米沢から侵入した伊達政宗と戦って敗れた。急を聞くや盛備は手勢を従え摺上原(すりあげはら)に馳せつけ奮斗し壮烈な戦死を遂げた。寛永4年(1627年)に377年の歴史を誇るこの城も幕命によって廃城となった。以後津川に代官が置かれた。
とあります。日本城郭大系によれば、建長2年(1250年)に金上遠江守が築いたとあります。源頼朝から会津の地を与えられた佐原義連の子が藤倉氏を称し、さらにその子孫が金上の地頭となったことから金上氏に改姓したとのことです。 この津川城は、芦名氏の越後側の押さえの城として非常に重要な役割を持った城であることが、よくわかります。現在の様相になったのは、戦国時代末期の蒲生氏・上杉氏の頃ではないかとのことですが、その通りと思われます。
上杉景勝が会津若松城主のころの城代は、徳川家康の下へ出奔した藤田信吉で、越後の堀秀治の押さえとされていました。 また、日本城郭大系によれば、廃城は慶安4年(1651年)となっていますが、あまり気にする必要はないでしょう。 |
☆私的見所 |
各郭、石垣、土塁が良い状態で残っております。新潟県内には石垣を用いた城は数少なく、非常に貴重な遺構です。 |