撮影日:2005年4月15日 以下の写真は、クリックすると拡大します。 |
01・案内図 |
02・二の丸東北側虎口 |
03・城道 |
04・城戸門 |
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05・長辺田の馬洗場 |
06・首切り清水 |
08・七曲坂上り口 |
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07・城道 |
09・虎口 |
10・空堀 |
11・物見山 |
12・物見山からの眺め |
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13・腰郭 |
14・物見山からの景色 |
15・城道 |
17・堀切 |
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16・三の郭 |
18・二の郭と腰郭 |
19・虎口 |
20・虎口と腰郭 |
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21・主郭 |
22・主郭 |
23・主郭東側土塁 |
24・主郭東側土塁 |
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25・主郭 |
26・村上城 |
27・堀切 |
28・腰郭 |
☆名称(別称) |
平林城 |
☆所在地 |
新潟県岩船郡神林村平林〜葛籠山 |
☆地図 |
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☆創築者、創築時期 (改修者、改修時期) |
不明(鎌倉時代に平林氏が築城か?) 慶長3年(1598年)上杉景勝が会津移封の際に廃城 |
☆城主 |
平林氏 - 色部氏 |
☆遺構・復元物 |
本丸、二の丸、三の丸、土塁、堀、井戸跡、要害山など。国史跡。 |
☆一言歴史 →(山麓・要害部分とも共通です。) |
上杉軍団揚北衆色部氏の居城として有名ですが、南北朝期まではこの地の豪族平林氏の居城であったそうです。平林氏は、南北朝期に新田義貞に勢についたため、色部氏に攻められ、領地とともに奪われたらしいです。以後色部氏が平林城を拠点としました。
色部氏は、鎌倉時代に桓武平氏秩父氏の一族である秩父季長の次男為長が、戦功により源頼朝から小泉庄色部条の地頭職を賜り、その後子孫が色部氏と称したのが始まりです。 ちなみに長男行長は、小泉庄本庄の地頭職を賜って、本庄氏となります(→村上城へ)。
戦国時代の越後国は守護代長尾氏の勢力が強大化していきますが、上杉謙信の父為景のころには、まだ完全に統一はされていませんでした。 特に、現在の阿賀野川より北の本庄氏、色部氏、竹俣氏らは近隣の下越国人衆とともに徒党を組んで守護代である長尾氏に時々反抗しました。彼らは揚北衆(阿賀北衆)と呼ばれていました。 謙信の時代の平林城主は色部修理進勝長で、永禄4年(1561年)第4回川中島の戦で「血染めの感状」を賜っています。勝長死去のあとは子の顕長(弥三郎、修理亮)が継ぎますが、顕長は天正4年(1576年)ごろ弟の長真に家督を譲りました。
謙信死後、景勝が上杉家の家督を継ぐと、長真は景勝に臣従しますが、天正20年(1592年)病のため京都で死去し、子の光長が幼少ながら家督を継ぎます。光長は景勝の会津移封に従って、出羽金山城1万石の城代となります。関ヶ原の戦の戦後処理によって景勝が米沢へ減封されると光長は米沢城下に住み、子孫は代々上杉家の重臣として続いたそうです。
平林城は、慶長3年(1598年)上杉景勝の会津移封の際に廃城となっています。 |
☆私的見所 |
山麓部分だけでも結構圧倒されていましたが、要害山部分もなかなか遺構が残っています。特に郭、堀切などははっきりと確認できます。要害山主郭からは村上城も見えます。失敗は、要害加護山の先にまだ詰の城である「みのわ」というところまで行かなかったということです。ちゃんと案内図は確認していかなければと少し反省です。詰の城はまたの機会に。 |
※関連・近隣史跡など