さきたま古墳群

撮影日:2006年9月24日

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01・案内図

03・石田堤

02・丸墓山古墳

04・忍城遠景

05・さきたま古墳群

06・二子山古墳

07・稲荷山古墳

08・丸墓山古墳

 

☆名称(別称)

さきたま古墳群

☆所在地

埼玉県行田市大字佐間、渡柳、樋上、堤根、埼玉

☆地図

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☆創築者、創築時期 

   (改修者、改修時期)

5世紀末〜7世紀初頭

☆遺構・復元物

丸墓山古墳(円墳)、二子山古墳(前方後円墳)、稲荷山古墳(前方後円墳)、将軍山古墳(前方後円墳)、愛宕山古墳(前方後円墳)、鉄砲山古墳(前方後円墳)、奥の山古墳(前方後円墳)、中の山古墳(前方後円墳)、瓦塚古墳(前方後円墳)があります。国指定史跡。

☆一言歴史

 さきたま古墳群は5世紀末から7世紀初めにかけて造られたと考えられています。

 8基の前方後円墳と1基の円墳からなる古墳群で、日本最大の円墳である丸墓山古墳があることで有名です。

 現在これらの古墳は整備され、散策が可能です。古墳についてはあまり知識がないので、この程度でご勘弁を。

 

 以下、忍城のページより抜粋です。 

 天正18年(1590年)は、豊臣秀吉の小田原攻めに際して、有名な石田三成の水攻めを受け、徹底抗戦の構えを取ります。この時、城主の成田氏長(成田長泰の長男)は小田原城に参陣していて不在ながらも、氏長夫人の太田氏(太田資正の娘)や城代の成田泰秀が、その攻撃に耐えます。石田三成や長束正家は、最初力攻めで忍城を攻撃しますが、忍城を巡る沼地に足元を取られてしまうために、秀吉お得意の水攻めを行なって城を孤立させることにします。

 三成は、忍城の南にある丸墓山古墳に陣を置き、古墳の南北に全長七里(約28km)にわたる堤防を築いて利根川や荒川から水を引き込んで忍城を囲うというものでしたが、攻撃の最中に豪雨となり、工事もずさんであったのか、堤防が決壊してしまいます。そのために大量の水が逆流したことで味方に損害を出してしまいます。

 忍城に篭る成田勢は、小田原城に篭城していた城主氏長の開城勧告によってようやく開城しました。

☆私的見所

 三成が本陣を置いた丸墓山古墳から忍城を見ると、かなり遠くに小さく見えます。私は備中高松城へは行ったことがないので比較はできませんが、とてつもない攻撃方法であったことが実感できました。大軍にモノをいわせた物量作戦とでもいいましょうか。天下を取りにいくまでの秀吉の凄さを実感できますね。

 また、この丸墓山古墳から南北に伸びていた石田堤もクルマで10分ほどのところにあります。

 

※近隣・関連史跡など

→騎西城(私市城)へ

→忍城へ

→館林城へ

→小田原城へ

→石田堤へ

→豊臣秀吉の銅像へ

 

   

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