石田堤

撮影日:2006年9月24日

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01・石田堤

02・石碑

03・案内板

04・案内板

05・石田堤

06・石田堤

07・石田堤

 

☆名称(別称)

石田堤

☆所在地

埼玉県行田市堤根

☆地図

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☆創築者、創築時期 

   (改修者、改修時期)

天正18年(1590年)、石田三成 創築

☆遺構・復元物

堤防約250m、石碑が現存しています。

☆一言歴史

 以下、忍城のページより抜粋です。 

 天正18年(1590年)は、豊臣秀吉の小田原攻めに際して、有名な石田三成の水攻めを受け、徹底抗戦の構えを取ります。この時、城主の成田氏長(成田長泰の長男)は小田原城に参陣していて不在ながらも、氏長夫人の太田氏(太田資正の娘)や城代の成田泰秀が、その攻撃に耐えます。石田三成や長束正家は、最初力攻めで忍城を攻撃しますが、忍城を巡る沼地に足元を取られてしまうために、秀吉お得意の水攻めを行なって城を孤立させることにします。

 三成は、忍城の南にある丸墓山古墳に陣を置き、古墳の南北に全長七里(約28km)にわたる堤防を築いて利根川や荒川から水を引き込んで忍城を囲うというものでしたが、攻撃の最中に豪雨となり、工事もずさんであったのか、堤防が決壊してしまいます。そのために大量の水が逆流したことで味方に損害を出してしまいます。

 忍城に篭る成田勢は、小田原城に篭城していた城主氏長の開城勧告によってようやく開城しました。

☆私的見所

 さきたま古墳群の丸墓山古墳を見た後でここを訪れました。往時には、堤防は全長七里(約28km)にも及んでいました。現在は、そのほとんどが失われ、全長約250mほどしか残っていませんが、案内図や石碑があります。

 

※近隣・関連史跡など

→騎西城(私市城)へ

→忍城へ

→館林城へ

→小田原城へ

→さきたま古墳群へ

→豊臣秀吉の銅像へ

 

   

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