鶴ヶ岡城

撮影日2004年5月2日

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01・案内図

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02・内堀と本丸中門跡

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03・内北門跡

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04・稲荷神社

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05・二の丸土塁

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06・二の丸土塁

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07・外北門跡

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08・内堀と本丸御隅櫓跡

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09・本丸御隅櫓跡

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10・本丸西側土塁

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11・内堀と渡り櫓跡

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12・内堀、本丸西南隅櫓跡

 

☆名称(別称)

鶴ヶ岡城 (大宝寺城、大泉城)

☆所在地

山形県鶴岡市馬場町

☆地図

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☆創築者、創築時期 

   (改修者、改修時期)

室町時代初期(1300〜1400年頃、武藤景頼) 創築?

天正19年(1591年)直江兼続 修築

慶長8年(1603年)最上義光(新関久正) 修築

元和8年(1622年)酒井忠勝 修築

☆城主

武藤氏 - 上杉氏(城代) - 最上氏(城代) - 酒井氏

☆遺構・復元物

土塁、内堀、藩校の致道館が現存。

☆一言歴史

 鎌倉時代〜戦国時代まで武藤氏の居城であり、当初は大宝寺城といっていましたが、天文元年(1532年)に武藤氏が尾浦城に移ったためその支城となります。

 

 天正16年(1588年)上杉景勝の武将本庄繁長に攻略され、天正19年(1591年)には同じく上杉景勝の武将直江兼続の所領となります。

 上杉氏が会津へ転封となった後も、この庄内の地は上杉領でした。

 

 関ヶ原以降の慶長6年(1601年)には上杉氏が米沢へ再度転封となったうえ、所領を減らされたため、山形城最上義光の所領となります。義光は自分の隠居城とするため新関久正に改築させ、慶長8年(1603年)に鶴ヶ岡城と改称しました。

 

 元和8年(1622年)最上氏が改易された後は幕府の庄内地方の押さえとして譜代の酒井忠勝が入ります。酒井氏は三代に渡って鶴ヶ岡城を修築し、城下町を整備しました。以後明治まで酒井氏の治世が続きました。

 

 鶴ヶ岡城は明治に入って破却され荘内神社となってしまったので、建築物の遺構はありませんが、すぐ脇にある庄内藩校の致道館と酒井氏の庭園が現存しています。

☆私的見所

 本丸、二の丸の土塁、堀くらいしか残っていませんが、藩校の致道館と庭園が現存していますので、そちらにも足を運ばれると良いと思います。(むしろそちらへ行く観光客の方が多いです。)

 

※関連・近隣史跡

→庄内藩校致道館へ

→山形城へ

→直江兼続の銅像へ

→最上義光の銅像へ

 

   

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