撮影日:2005年7月23日 以下の写真は、クリックすると大きいサイズになります。 |
01・路面電車 |
02・松川 |
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03・本丸搦手門石垣 |
04・千歳桜の碑石 |
05・本丸搦手門石垣 |
06・本丸搦手門石垣 |
07・松川茶屋 |
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08・本丸搦手門石垣 |
09・本丸搦手門 |
10・本丸搦手門枡形 |
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11・本丸搦手門枡形 |
12・模擬天守 |
13・模擬天守 |
14・本丸多聞櫓石垣 |
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15・本丸多聞櫓石垣 |
16・本丸多聞櫓石垣 |
17・西出丸南面 |
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18・富山城址新旧比較図 |
19・本丸多聞櫓石垣 |
20・本丸鉄御門枡形 |
21・本丸鉄御門枡形石垣 |
22・本丸鉄御門枡形 |
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23・本丸多聞櫓石垣 |
24・本丸鉄御門枡形 |
25・本丸多聞櫓石垣 |
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26・本丸鉄御門枡形 |
27・西出丸 |
28・本丸多聞櫓石垣 |
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29・本丸 |
30・本丸搦手門枡形 |
31・前田正甫像 |
32・大伴家持像 |
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33・本丸搦手門枡形 |
34・本丸搦手門枡形 |
35・9600型SL |
36・城址公園北側 |
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37・本丸〜西出丸南面 |
38・本丸鉄御門枡形&多聞櫓石垣 |
☆名称(別称) |
富山城 (富城、浮城) |
☆所在地 |
富山県富山市本丸 |
☆地図 |
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☆創築者、創築時期 (改修者、改修時期) |
天文12年(1543年)頃、神保長職 創築? 天正9年(1581年)、佐々成政 改修 天正13年(1585年)、落城、破却 天正15年(1587年)、前田氏領有 慶長2年(1597年)、慶長10年(1605年)、前田利長 改修 慶長14年(1609年)、城下の火災により全焼し、城主前田利長は高岡城へ移転 寛永17年(1640年)、万治4年(1661年)、前田利次 改修 延宝3年(1675年)、正徳4年(1714年)、天保2年(1831年)、火災により本丸など焼失するもののその都度修築、再建 明治4年(1871年)7月、廃藩置県により富山県庁となる 同年11月、新川県設置により県庁移転、廃城 明治16年(1883年)、富山県再設置により本丸に富山県庁設立 昭和5年(1930年)、富山県庁焼失 昭和10年(1935年)、富山県庁城外へ移転 昭和14年(1939年)、富山城址公園となる 昭和29年(1954年)、模擬天守建設 |
☆城主 |
神保氏 - 一向一揆衆徒 - 上杉氏 - 神保氏 - 佐々氏 -(一時廃城)- 前田氏 |
☆遺構・復元物 |
本丸鉄御門枡形、多聞櫓、搦手門枡形などの石垣、堀の一部などが現存。天守は模擬。 |
☆一言歴史 |
富山城は、天文12年(1543年)頃、越中守護代の神保長職が、越後長尾氏(のち上杉氏)に属して新川郡を支配していた椎名氏に対抗するために築城したといわれています。 その後、永禄〜天正初期(1560〜72年頃)にかけて神保氏の勢力が衰えると、加賀の一向一揆衆や上杉謙信によって攻略され、天正6年(1578年)に謙信が急逝するまで上杉支配下の城となります。 謙信没後、織田信長は庇護していた神保長住に佐々成政をつけて富山城に帰城させ、天正9年(1581年)成政の指示により富山城が改修されました。 天正10年(1582年)一向一揆衆の急襲により長住は捕虜となってしまいます。成政の迅速な行動によって長住は救出されますが、信長は領主としてはあまりパッとしない長住と成政の立場を入れ替えます。成政は、翌年越中をほぼ制圧し54万石の領主となりました。
同年、信長が明智光秀の謀反により本能寺にて横死すると、備中高松城で毛利軍と対峙していた羽柴秀吉が驚異の中国大返しを見せ、あっという間に明智軍を破り、織田家中の主導権争いで一歩リードする形となります。 その織田家中の主導権争いは前田利家が賤ケ岳の戦いにおいて秀吉に降伏したことにより、ほぼ勝敗がつき、北庄城に籠城する勝家は秀吉に降ることを嫌って自刃しました。
天正12年(1584年)織田信雄が徳川家康に協力を求めたことに呼応し、成政は真冬の北アルプス越えをして家康に秀吉との徹底抗戦を依頼するものの、信雄が単独で講和してしまったことで家康は秀吉と敵対する名目を失ったため和睦してしまいました。 孤立した成政は単独で羽柴軍と交戦しますが、数に勝る羽柴軍にはかなわず降伏しました。落城した富山城はそのまま破却され、成政は肥後へ転封となりました。しかし成政は、気性の荒い肥後の国人衆の統治に失敗、失脚し、秀吉に切腹を命じられてしまいます。
天正15年(1587年)成政移封後の富山城は前田家の預かりとなります。慶長2年(1597年)には前田利長が修築し2年間居城しました。
関ヶ原の戦い後、豊臣政権から徳川政権に移ると前田家は加賀、能登、越中あわせて120万石の所領を拝領することとなりますが、外様最大の所領を持つ大名であるが故に、常に徳川幕府の改易攻撃を受けることとなります。 慶長10年(1605年)利長は、まだ40代半ばであるというのに、当時わずか13歳の利常に藩主の座を譲り、利常の後見役となって富山城を修築して隠居しましました。
利長の隠居城として修築された富山城でしたが、慶長14年(1609年)に城下の火災より全焼してしまったため、高岡へ移転しました。
富山城が再度整備されたのは、寛永16年(1639年)に金沢城主前田利常が隠居した際に、次男利次に越中富山10万石を分封したときです。利次は廃墟と化していた富山城を仮の居城としましたが、加賀藩領との諸事情から、本格的に城下町を含めた整備拡張が行われたのは万治4年(1661年)のことでした。
利次のあと富山藩2代目の藩主は、富山の薬売りを有名にした正甫(まさとし)です。江戸城中で腹痛に苦しんでいた大名に正甫が反魂丹を与えたところ、たちまち気分が回復したということが城中に広まり、諸大名から薬を頼まれたことがきっかけになったといわれています。
越中前田家は利次以後、世襲して明治を迎えますが、富山県庁が置かれるなど富山市の中心地としての役割は変わらず続きました。 |
☆私的見所 |
現在本丸と西出丸は間にあった堀を埋めて結合され、富山城址公園となっています。模擬天守には賛否両論あると思いますが、建設当初の時代背景と目的から考えれば、いまさら取り壊すにも莫大な費用がかかるわけですし、既に建設から50年以上もここに建っていて富山市のシンボル的な存在になっていますので、私は仕方のないことだと思っています。 現在は、石垣と堀の一部がかつての富山城を偲ばせてくれます。私は石垣や土塁さえ残っていればそれでいいので(笑)とても良かったです。 |
※関連・近隣史跡など