高岡城

撮影日:2005年7月23日

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01・案内図

02・明丸

03・本丸、内堀

04・鍛冶丸、枡形堀

05・石垣

06・案内図2

07・大手道

08・高山右近像

09・二の丸

10・二の丸土塁

11・石垣

13・石垣

12・石垣

14・射水神社

15・本丸

16・本丸土塁?

17・本丸土塁?

18・本丸

19・本丸井戸

20・朝陽橋

21・小竹薮

22・中の島

23・土塁

24・本丸

25・本丸

26・民部の井戸

27・C11

 

☆名称(別称)

高岡城

☆所在地

富山県高岡市古城

☆地図

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☆創築者、創築時期 

   (改修者、改修時期)

慶長14年(1609年)、前田利長 創築

元和元年(1615年)、一国一城令により廃城。廃城後は奉行により監視される。

☆城主

前田氏

☆遺構・復元物

曲輪、石垣、土塁、堀、井戸など

☆一言歴史

 慶長10年(1605年)に、加賀藩二代藩主の前田利長が自らの隠居城とするため富山城を改修しましたが、慶長14年(1609年)3月に城下の火災が原因で城も全焼したため、当時関野ヶ原と呼ばれていた台地に移転することにし、同年4月、高山右近の縄張りにて築城を開始しました。

 

 同年9月、利長は未完成の城に既に入り、関野ヶ原を高岡と改めましたが、築城工事はかなりの急ピッチで行われたようで、積まれた石垣が崩落するなどの事故もあったようです。

 

 利長は、父の利家死後、前田家を継ぎましたが、外様大名中最大の領地を持っていただけに、常に徳川家康・秀忠父子の改易攻撃に耐えてきました。

 しかし慶長10年(1605年)、心労が重なったのか、まだ44歳であるのに家督を当時わずか13歳の異母弟利常に譲ってしまいました。

 慶長19年(1614年)、利長は高岡城内で死去しました。享年53歳。異説によれば、徳川家と豊臣家の板ばさみとなったため自刃したともいわれています。

 

 翌元和元年(1615年)、一国一城令により廃城となって、廃城後は建築物こそ取り壊されましたが、堀や曲輪、土塁などは破却されず、万が一の有事に備えたのか、城跡は明治になるまで奉行により監視されたそうです。

 

 現在は、高岡古城公園として整備されています。

☆私的見所

 個人的には石垣好きなので、本丸と二の丸を結ぶ土橋の石垣が見所ですが、本丸、二の丸、三の丸、鍛冶丸、明丸といった広大な各曲輪が現存していることと、それらを取り巻く水堀まで完存していることも見所です。実際写真もかなり撮ったのですが、水に浮かぶ島のような感じで、どの写真も似たような感じでしたので、アップした写真の枚数は少なめです。

 

※関連・近隣史跡

→富山城へ

→金沢城へ

→小松城へ

→大聖寺陣屋へ

→前田利家の銅像へ

→前田利常の銅像へ

→前田利長の銅像へ

→高山右近の銅像へ

 

   

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