本与板城

撮影日:2005年5月14日

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01・入口

02・駐車場所

03・登城口

04・登城口

05・空堀

06・空堀

07・崩落箇所

08・万歳閣、護国殿跡

09・万歳閣、護国殿跡

10・空堀

11・空堀

12・大空堀

13・二の郭

14・大空堀

15・本丸跡碑

16・大空堀

17・一の郭(本丸)

18・縄張図

19・城跡碑

20・土塁

21・二の郭

22・南郭

23・南郭(奥側)

24・空堀

25・空堀

26・三の郭

27・四の郭?

28・四の郭?

29・四の郭?

 

☆名称(別称)

本与板城 (与板城)

☆所在地

新潟県三島郡与板町本与板

☆地図

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☆創築者、創築時期 

   (改修者、改修時期)

建武元年(1334年、籠沢入道) 創築?

 

☆城主

籠沢氏 - 中条氏 - 飯沼氏 - 直江氏

☆遺構・復元物

郭、土塁、堀切などが現存。

☆一言歴史

 資料等が少なく、はっきりとした歴史はわからないのですが、建武元年(1334年)に新田義顕の一族籠沢入道が築城したのではないかといわれています。南北朝時代に入ると越後の守護上杉氏の支配下におかれ中条氏、飯沼氏が居城したとされています。

 

 飯沼氏は、新田義貞に替って越後守護となった上杉氏の重臣でした。戦国時代に入ると、越後は守護代長尾家が勢力を伸ばし、守護上杉家と対立し始めました。永正の乱の時には上杉氏の重臣であったことから守護上杉方につき、敗れました。このため飯沼氏は断絶したようです。

 

 飯沼氏が断絶した後は、さらに守護代長尾為景の勢力が増し、天文年間(1532〜55年)にはその重臣直江実綱が城主となっています。実綱は長尾氏3代(為景、晴景、景虎)の智将として有名です。内政面や外交を任されていたようで、その能力を高く買われていました。本与板城及び城下町が整備されたのは実綱のころであるといわれています。

 ちなみに与板は打刃物の産地ですが、そのルーツは実綱が城主の頃に刀剣師が招かれ、手工業を発達させたものであるといわれています。

 実綱はのちに長尾景虎の「景」の字を賜り景綱と名乗るようになりますが、ややこしくなるので実綱で通します。

 実綱には娘(お船)しかいなかったため、長尾景貞の子を婿入りさせ、直江信綱として後継者にしました。信綱も長尾景虎改め上杉謙信に仕え、上杉家の重臣となっていました。

 

 天正6年(1578年)に上杉謙信が急死すると、まもなく喜平次景勝と三郎景虎の二人の養子によって跡目争いが起こり、越後を二分する戦いとなりました(御館の乱、天正6〜8年・1578〜80年)

 信綱は喜平次景勝方につき、戦いには勝ちましたが、春日山城中で山崎秀仙(専柳斎)が毛利秀広に切殺され、それを止めようとして信綱も切殺されてしまいました。

 

 上杉景勝は、上杉家譜代の重臣である直江家が途絶えるのを惜しみ、未亡人となっていた信綱の妻お船に、樋口兼豊の長男与六兼続を婿入りさせ、直江兼続として継がせました。兼続もまた、治水整備や産業の発展に力を注ぎ、与板城下の発展に貢献したことはよく知られていることです。

 

 現在は、本与板城という名称になっていますが与板には、もう一つ与板城があり、そちらは直江兼続が築城したと考えられていますが、詳しいことはわかっていません。そしてもう一つの与板城が完成後も本与板城は破却せず、両方使用していたと考えられています。

 

 2つの与板城は、上杉景勝が豊臣秀吉により会津移封となった時に兼続も同行したため、廃城となりました。

☆私的見所

 前回雨天であったために、登城を断念したため、再挑戦しました。しかし、中越地震の影響により、崩落箇所が多く、かなり荒れ果てた状況となっていました。しばらくは復興整備はされないようです。

 近くには江戸時代井伊氏居城の与板陣屋、お城などの資料が少ないですが与板陣屋の大手門が現存する西本願寺与板別院隣の歴史民族資料館、江戸時代の豪商の別荘楽山苑、直江兼続居城の与板城(城山)などがあります。

 

※関連・近隣史跡

→与板城へ

→与板陣屋へ

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→神指城へ

→直江石堤へ

→直江兼続の銅像へ

 

   

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