与板城

撮影日:2007年3月2日

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01・八坂神社前

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02・神社脇の登城口

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03・曲輪群

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04・曲輪群

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05・おせん清水

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06・おせん清水

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07・曲輪群

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08・腰曲輪

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09・曲輪群

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10・腰曲輪

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11・本丸

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12・本丸(実城)

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13・本丸北西側

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14・本丸

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15・大手道

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16・本丸

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17・本丸

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18・城の一本杉

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19・本丸

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20・本丸土塁

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21・縄張り図

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22・城址碑

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23・石碑

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25・本丸土塁

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24・本丸

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26・空堀

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27・空堀

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28・空堀

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29・本丸、空堀

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30・二の丸

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31・空堀

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32・空堀

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33・三の丸

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34・三の丸東側の曲輪群

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35・空堀と土塁

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36・空堀

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37・三の丸塁壁

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38・三の丸南側の曲輪群

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39・大堀

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40・千人溜

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41・千人溜

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42・千人溜

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43・城の南端

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44・三の丸東側の曲輪群

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45・三の丸東側の曲輪群

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46・大手道

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47・大手道

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49・「人日」の石碑

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50・大手道入り口

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48・「人日」の石碑

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51・城址碑

 

☆名称(別称)

与板城 (直江山城)

☆所在地

新潟県三島郡与板町城山

☆地図

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☆創築者、創築時期 

   (改修者、改修時期)

創築時期不明

天正年間(1573〜92年)、直江実綱、信綱、兼続の3代の間で創築か?

慶長3年(1598年)上杉景勝が会津移封の際に廃城

☆城主

直江氏

☆遺構・復元物

曲輪、土塁、空堀などが現存。

☆一言歴史

 建武元年(1334年)に新田義顕の一族籠沢入道が本与板にある本与板城を築城したのではないかといわれています。南北朝時代に入ると越後の守護上杉氏の支配下におかれ中条氏、飯沼氏が居城したとされています。

 

 飯沼氏は、新田義貞に替って越後守護となった上杉氏の重臣でした。戦国時代に入ると、越後は守護代長尾家が勢力を伸ばし、守護上杉家と対立し始めました。永正の乱の時には上杉氏の重臣であったことから守護上杉方につき、敗れました。このため飯沼氏は断絶したようです。

 

 飯沼氏が断絶した後は、さらに守護代長尾為景の勢力が増し、天文年間(1532〜55年)にはその重臣直江実綱が城主となっています。実綱は長尾氏3代(為景、晴景、景虎)の智将として有名です。内政面や外交を任されていたようで、その能力を高く買われていました。本与板城及び城下町が整備されたのは実綱のころであるといわれています。

 ちなみに与板は打刃物の産地ですが、そのルーツは実綱が城主の頃に刀剣師が招かれ、手工業を発達させたものであるといわれています。

 実綱はのちに長尾景虎の「景」の字を賜り景綱と名乗るようになりますが、ややこしくなるので実綱で通します。

 実綱には娘(お船)しかいなかったため、長尾景貞の子を婿入りさせ、直江信綱として後継者にしました。信綱も長尾景虎改め上杉謙信に仕え、上杉家の重臣となっていました。

 

 天正6年(1578年)に上杉謙信が急死すると、まもなく喜平次景勝と三郎景虎の二人の養子によって跡目争いが起こり、越後を二分する戦いとなりました(御館の乱、天正6〜8年・1578〜80年)

 信綱は喜平次景勝方につき、戦いには勝ちましたが、春日山城中で山崎秀仙(専柳斎)が毛利秀広に切殺され、それを止めようとして信綱も切殺されてしまいました。

 

 上杉景勝は、上杉家譜代の重臣である直江家が途絶えるのを惜しみ、未亡人となっていた信綱の妻お船に、樋口兼豊の長男与六兼続を婿入りさせ、直江兼続として継がせました。兼続もまた、治水整備や産業の発展に力を注ぎ、与板城下の発展に貢献したことはよく知られていることです。

 

 しかし、この与板城の築城時期については詳細はわかっていません。もう一つの本与板城があるのに、なぜまた新しくこのような近くに造る必要があったのか?などとは思いますが、わかりませんね。しかもこの与板城が完成後も本与板城は破却せず、両方使用していたらしいのでなおさらそう思いますね。

 

 2つの与板城は、上杉景勝が豊臣秀吉により会津移封となった時に兼続も同行したため、廃城となりました。

☆私的見所

  このたび大河ドラマ天地人が放映されましたので、便乗して新しい写真を追加してみました。とはいえ10ヶ月ほど前の写真ですが・・・

 

 本丸、二の丸、三の丸、千人溜などの曲輪や堀切、竪堀が残っています。本丸にある案内板が大雑把なので、本丸〜千人溜以外はどういう名称であったのかは全くわかりませんでした(というか史料が残っていないのでしょう)。井伊氏の在城した陣屋(後に城主格となっているのでこちらも与板城なのです)の方が地元の方々には馴染み深いからなのかもしれませんが、直江兼続が居城していたこちらの城の方も、もっと整備されるといいですね。私自身兼続ファンなので・・・。

 近くには江戸時代の井伊氏居城の与板陣屋があり、与板城と本与板城の模型が展示され、与板陣屋の大手門が現存する西本願寺与板別院隣の歴史民族資料館、江戸時代の豪商の別荘楽山苑、少し離れて飯沼氏築城でもっと古い本与板城などがあります。

 

※関連・近隣史跡

→本与板城へ

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