長岡城

撮影日:2003年7月26日

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01・模擬天守

02・模擬天守

 

☆名称(別称)

長岡城 (→写真は悠久山公園の長岡市郷土史料館)

☆所在地

新潟県長岡市城内町(悠久山公園は長岡市悠久山)

☆地図

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☆創築者、創築時期 

   (改修者、改修時期)

元和4年(1618年、堀直竒〜牧野忠成)

☆城主

堀氏 - 牧野氏

☆遺構・復元物

なし。長岡駅前に城跡碑あり。悠久山公園に模擬天守(城郭風の郷土史料館)があります。

☆一言歴史

 当初長岡に封された堀直竒は阿賀野川沿いにあった蔵王堂城を居城としますが、水害等の影響を受けやすいため、慶長10(1605)年現JR長岡駅付近に築城に着手するが慶長15(1610)年信濃飯山城へ転封のため中断。元和2(1616)年再入封し元和3(1617)年に築城を再開しますが、元和4(1618)年今度は村上へ転封されてしまいます。直竒転封後に牧野忠成が入封し工事を再開し、完成します。城郭は土塁が主体で、本丸と詰の丸に三重櫓2基、本丸に二重櫓5基、二の丸に二重櫓2基が建てられていたそうです。

 

 その後長岡藩が歴史の大舞台に出てくるのは、やはり幕末でしょう。幕末に一花咲かせた長岡藩の中心人物と言えば河井継之助です。120石の家格である河井家から異例の出世で家老上席にまで抜擢されました。

戊辰戦争時、河井継之助は当初中立で通そうとしましたが他の重臣の反対にあい、やむなく奥羽越列藩同盟に加盟しました。すると日本に3門しかないガトリング砲のうち2門を買って新政府軍と戦い、一度占領された長岡城を奪い返したりと奮戦しました。

しかし、新政府軍の増援部隊が到着し、新発田、新潟が相次いで攻略されると長岡藩も再度攻略され落城しました。

 

 その後明治7年()ごろ、長岡城は牧野家の所有となり、旧藩士らによって公園として整備されました。しかし、明治30年()に北越鉄道(現JR)開通に伴い、城地本丸東部が駅として提供され、御三階櫓の土塁は切り崩されてしまいます。さらに、第二次世界大戦の空襲と戦災後の復興により、遺構は全てなくなってしまいました。現在は市内の地名にその名残があるのみです。

 長岡城のように遺構が跡形もなく全て消滅してしまうのは全国的にも非常に珍しいようです。

☆私的見所

 駅から車で10分位のところにある悠久山公園内に城郭風の模擬天守(郷土資料館)があり、河井継之助や山本五十六の資料などが展示されています。ちなみに、この模擬天守は長岡城の御三階櫓を模したものだそうです。どうしても遺構が無きゃ嫌だという人は蔵王堂城へどうぞ。

 

※近隣・関連史跡など

→蔵王堂城へ

→信濃飯山城へ

→村上城へ

→堀直竒の銅像へ

 

   

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