剣ヶ峰砦、南沢尾根砦

撮影日:2005年4月30日

以下の写真はクリックすると拡大します。

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01・黒滝城案内図

02・剣ヶ峰砦部分案内図

03・門口砦前

04・登城口

05・城道

06・黒滝城

07・城道

08・城道

09・四の堀切

10・五の堀切

11・六の堀切

12・六の堀切

13・弥彦山

14・七の堀切周辺?

15・曲輪

16・寺泊方面

17・見張り台跡

18・砦西側城道

19・砦西側城道

20・砦西側城道

21・砦西側城道

22・砦西側城道

23・南沢尾根砦

24・南沢尾根砦、剣ヶ峰砦入口3076p

 

☆名称(別称)

剣ヶ峰砦、南沢尾根砦 (黒滝城)

☆所在地

新潟県西蒲原郡弥彦村大字麓字要害(!そのまんま。県道沿いのガソリンスタンド付近に「黒滝城跡」という小さい看板があります。)

☆地図

  ←地図はこちらをクリック (黒滝城を目指していけばOKです。)

☆創築者、創築時期 

   (改修者、改修時期)

不明(鎌倉時代?)〜慶長3(1598)年

上杉氏会津転封時に廃城

☆城主

小国氏 - 大須賀氏 - 黒田氏 - 山岸氏

☆遺構・復元物

郭跡、堀切、井戸跡。

☆一言歴史

(黒滝城と共通です)

 この黒滝城は、栃尾城とともに若き日の長尾景虎(のちの上杉謙信)が、越後の国人領主の支持を集めるきっかけとなった城ですが、築城の年代は不明で鎌倉時代には小国氏一族が在城したようです。

 

 黒滝城が歴史上で目立ってくるのは戦国時代でしょう。

 越後守護の上杉氏と守護代長尾氏との対立が激化し、永正4年(1507年)から一進一退の攻防が繰り広げられました。永正7年(1510年)に長森原の戦いで、長尾景虎(のちの上杉謙信)の父長尾為景が守護上杉顕定を自刃に追い込み、越後は長尾氏の支配下に置かれることとなりました。この頃の黒滝城主は永正6(1509)年大須賀志摩守、その後黒田和泉守秀忠が城主となりました。

 

 天文5年(1536年)、為景は長男の晴景に家督を譲って隠居し、天文12年(1543年)に没しました。為景の死後、これを待っていたかのように国人領主たちの叛乱が相次ぎ、晴景はこれを抑えきれず、春日山城下の林泉寺にいた当時14歳の弟の景虎(当時は虎千代)を還俗させて栃尾城に配置しました。

 天文14(1545)年、黒田秀忠は三条城主長尾俊景らとともに越後守護代長尾晴景に反抗し挙兵したことで、弟景虎(後の上杉謙信)軍により翌天文15(1546)年に一族もろとも討ち果たされました。

 これで景虎が揚北や越後中郡の諸将の支持を得たことで、兄晴景が今度は景虎に対して危機感を抱き、景虎討伐軍を出陣させました。

 景虎は米山の戦いで討伐軍を破り、春日山城下に迫りましたが、守護上杉定実が調停に入り、景虎が晴景の養子となることで決着しました。守護代となったあとの景虎春日山城へと移りました。景虎はやがて上杉の名跡と関東管領を引き継ぎ、政虎→輝虎→謙信と名を変えていきます。

 

 黒田氏討伐後の黒滝城主は上杉家の重臣山岸出雲守光祐で、以後山岸宮内少輔秀能、村山善左衛門尉慶綱らが城主となりました。

 ちなみにこの頃の山岸氏は同じ弥彦村にある桔梗城の城主も兼任していたようです。

 

 天正6年(1578年)に上杉謙信が急死すると、喜平次景勝と三郎景虎の二人の養子が家督をめぐって対立した御館の乱が勃発しました。黒滝城主山岸氏は父子で景勝方に味方し、軍功をあげたようです。

 

 慶長3(1598)年上杉景勝の会津移封により山岸氏一族もこれに従い、黒滝城は廃城となりました。

☆私的見所

 黒滝城に隣接する剣ヶ峰砦と南沢尾根砦ですが、もちろん黒滝城とセットです。少し残念なのは黒滝城が大変良く整備されているのに対して、あまり手が入っていないところでしょう。

 そのため、登山靴でないと少し危険な箇所もあります。興味のある方は黒滝城とセットで登城してみましょう。

 

※近隣・関連史跡

→桔梗城へ

→天神山城へ

→黒滝城へ

→栃尾城へ

→春日山城へ

 

   

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