護摩堂城

撮影日:2005年5月8日

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01・護摩堂山周辺図

02・護摩堂城縄張り図

03・搦手側登城口

04・案内図?

05・搦手口

06・虎口

07・虎口

08・虎口

09・虎口

10・堀切

11・虎口

12・二の丸

13・お稲荷様

14・蔵屋敷

15・蔵屋敷

16・城址碑

17・越後平野

18・本丸

19・本丸

20・土塁

21・アジサイ

27・越乃彼岸桜

22・空堀・土塁

23・石塁?

24・空堀・土塁

25・石切り場

26・曲輪?

28・馬場跡

29・馬場

30・新津曲輪

 

☆名称(別称)

護摩堂城

☆所在地

新潟県南蒲原郡田上町大字田上

☆地図

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☆創築者、創築時期 

   (改修者、改修時期)

説1:鎌倉時代末期、平賀宝山 創築?

説2:平安時代末期、羽生田周防守 創築?(金菅沢城?)

改修者、改修時期不明

天正時代末期(1580年頃)廃城

慶長5年(1600年)、上杉遺民一揆が起こった際に使用。一揆鎮圧後は再度廃城となる。

☆城主

(羽生田氏? - )平賀氏? - 宮崎氏 - 和田氏 - 山吉氏 - 甘粕氏 - 上杉遺民一揆勢

☆遺構・復元物

曲輪、土塁、空堀など。

☆一言歴史

 護摩堂城の築城については2説あり、一つは鎌倉時代末期に現在の旧新津市から田上町の一部にあたる金津保の地頭で新津氏の一族である平賀宝山が築いたといわれています。

 もう一つは、黒鳥兵衛の乱にも登場する羽生田周防守が築城したという説もあります。いづれにせよ、室町時代には既に存在していたことは確かなようです。以下、案内板より。

 

 室町時代には、越後守護の上杉房朝と守護代長尾邦景が争った応永の乱(1422年)において、北蒲原中条の和田一族らが守護代方の三条の山吉久盛を討つためにここに立て篭もりました。

 また、上杉謙信の父長尾為景が守護上杉房能を制した永正の乱(1507年)には為景方として孤軍奮闘した山吉能盛が死守し、拠点の一つとして重要な役割を果たしました。

 ついで上杉景勝の代には魚沼郡上田出身の甘粕景継が一時在番しましたが、上杉景勝が新発田氏を制した後の天正末期頃(1580年頃)に廃城となりました。

 

 廃城後の慶長5年(1600年)に起こった上杉遺民一揆の際には約一ヶ月に渡って一揆勢がここに立て篭もり上杉氏移封後に越後を統括した堀氏に抵抗しました。

 

 その他、城にまつわる話としては、焼き米伝説や団九郎狐伝説があるそうですが、私的には勉強不足でよくわかっていません。山頂北東部には天然記念物の繋ぎ栢自生地があります。

☆私的見所

 大手側は、遊歩道整備によってかなり破壊が進んでおり、「なんてことを・・・」という感じですが、搦手口側は結構遺構があります。個人的には搦手側がオススメです。また、本丸周辺はアジサイ園となっているため、アジサイの時期に来ればキレイなアジサイが目いっぱい見ることができます。

 

※近隣・関連史跡など

→村松城へ

→剣ヶ峰城・加茂山要害へ

 

   

 

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