上田城

撮影日:2004年4月2日

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01・旧藩主館表門

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02・本丸南櫓

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03・西櫓下の石垣

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04・本丸南櫓

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05・本丸

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06・内堀

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07・本丸南櫓

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08・本丸西櫓

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09・東虎口櫓門と南櫓

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10・本丸北櫓

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11・真田石

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12・北櫓

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13・東虎口櫓門と北櫓

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14・本丸南櫓、東虎口櫓門、北櫓

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15・本丸北櫓

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16・本丸南櫓、東虎口櫓門、北櫓

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17・案内図

 

☆名称(別称)

上田城 (尼ヶ淵城、伊勢崎城、真田城、松尾城)

☆所在地

長野県上田市二の丸

☆地図

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☆創築者、創築時期 

   (改修者、改修時期)

天正11年(1583年、真田昌幸) 創築

元和8年(1622年、仙石忠政) 修築

☆城主

真田氏 - 仙石氏 - 藤井松平氏

☆遺構・復元物

本丸西櫓、北櫓、南櫓、石垣、堀、二の丸虎口の石垣、土塁、上田高校の敷地に旧藩主居館の表門、土塀、などが現存。城跡国史跡、櫓3棟県宝。

☆一言歴史

 いわずと知れた真田氏の城ですが、小県(ちいさがた)郡の土豪小泉氏の砦があったともいわれています(諸説あるようですが・・・)。

 とはいうものの、本格的な築城は真田昌幸によるもので天正11(1583)年に築きました。2年後の天正13(1585)年、徳川家康が8500の兵でこの上田城を攻めますが、真田昌幸は2000の兵で守りきるばかりか、徳川軍に大打撃を与えます。この上田合戦で真田昌幸の武名と上田城の堅固ぶりが知れ渡りました。

 

 さらにその後慶長5(1600)年、関ヶ原の合戦で真田昌幸・信繁(幸村)父子は西軍に加勢し、戦のために西下しようとする家康の次男秀忠の大軍36000をわずか2500ほどの兵で迎撃・翻弄し、秀忠軍を6日間も足止めさせました。このため、秀忠は家康にひどく叱責されしばらくの間面会を許されなかったといいます。

 戦は西軍が敗北したために真田父子は高野山麓九度山に蟄居させられ、その後しばらくして上田城は廃城となりますが、二度の徳川の大軍を退けた真田父子と上田城の名はさらに高まりました。

 しばらくして関ヶ原の戦で徳川勢に加勢していた真田昌幸の長男信之が上田に入封し、廃城となっていた城を修築しましたが、元和8(1622)年松代に移封され、仙石忠政が6万石で入封しました。現在の上田城の遺構は仙石氏の時代に修築されたものと言われています。宝永3(1706)年に藤井松平氏が5万3千石で入封すると以後世襲して明治維新を迎えました。

 

 この城には立派な天守はありませんでしたが、徳川の大軍を二度も退けたという真田昌幸の武勇伝あり、明治に入って遊郭に櫓が売り出されたりとエピソードの多い城でもあります。

☆私的見所

 実際に行ってみると、縄張りはシンプルで確かに尼ヶ淵側からの攻めには堅固でしょうが、この城が本当に徳川秀忠の大軍から守りきったのか?と思ってしまいます。しかし、そこはやっぱり謀将真田昌幸の作戦が素晴らしかったのでしょうね。

 見所は、前出の尼ヶ淵側からの眺望と同じ形の櫓3棟でしょうか。ちなみに南櫓内は見学できます。

 東虎口櫓門正面からの撮影は午前中のほうが良いです。午後になると逆光になります。

 

※近隣・関連史跡

→松代城(海津城)へ

→沼田城へ

→名胡桃城へ

→真田邸、真田文武学校、真田宝物館へ

 

   

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