白石城

撮影日:2004年4月7日

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01・大櫓

02・大櫓石垣

03・大手門

04・案内図

05・大櫓

06・大手二の御門

07・大櫓、本丸

08・大櫓

09・鐘堂、井戸

10・大櫓内部

11・大櫓内部

12・大櫓内部

13・大櫓内部

14・大櫓内部

15・大櫓一階

16・本丸

17・大手門枡形

18・本丸西側石垣跡

19・大手門と本丸

20・付櫓

21・大櫓

22・桜

23・大櫓、大手一の御門

24・大手門枡形

25・大櫓

 

☆名称(別称)

白石城 (益岡城、増岡城、桝岡城)

☆所在地

宮城県白石市益岡町

☆地図

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☆創築者、創築時期 

   (改修者、改修時期)

創築時期不明。戦国時代には白石氏の居城として存城。

天正19年(1591年)蒲生郷成 改修

慶長3年(1598年)甘糟景継 改修

慶長7年(1602年)片倉景綱 改修

☆城主

? - 白石氏 - 屋代氏 - 蒲生氏(城代蒲生郷成) - 上杉氏(城代甘糟景継) - 伊達氏(城代石川昭光) - 片倉氏 (- 南部氏)

☆遺構・復元物

本丸、土塁、堀、復元大櫓(御三階櫓)、城門など

☆一言歴史

 白石城は、室町時代に豪族の白石氏が居館を建てたのが始まりですが、永保3年〜寛治元年(1083〜87年)の後三年の役に源義家に従い、軍功のあった刈田氏が居館を造ったという説もあります。

 いずれにせよ、戦国時代には伊達晴宗が白石氏の居城に拠って、父稙宗と戦ったらしいので、その頃までには存在していたようです。

 

 その後戦国時代末期には、晴宗の孫である政宗が会津の葦名氏を滅ぼしこの地を支配下に入れましたが、天正19(1591)年の奥州仕置によって、豊臣秀吉伊達政宗を岩出山城に追いやってしまいます。

 白石を与えられた蒲生氏郷は、伊達領との要衝の地であると考え(実際にこの二人は、やり合ってますが・・・)、白石城を蒲生郷成に与えて改修させました。

 

 氏郷没後の慶長3(1598)年、会津若松城には越後春日山城より上杉景勝が入封し、氏郷の領土はほぼ景勝に引き継がれます。関ヶ原の戦以後景勝は米沢へ移封され、白石は再び伊達政宗の所領となります。伊達領としてもやはり要衝の地ですので、政宗の右腕として活躍した「鬼の小十郎」こと片倉景綱に白石城を任せます。しかも、一国一城令が発令された後も特例扱いで幕末を迎えます。

 

 幕末の慶応4(1868)年、奥羽越31藩がこの城で奥羽越列藩同盟を結び、新政府軍と徹底抗戦を行うことを決議し、幕末の悲劇へと繋がっていきました。

☆私的見所

 平成6年に日本古来の建築様式で復元された天守(御三階櫓)、城門が見所です。天守内の石落しや狭間などもきちんと復元されています。白河城の復元天守(御三階櫓)よりもかなり大きい印象を受けました。現在は益岡公園となっており、訪城当日も家族連れが多かったです。

 

※関連・近隣史跡など

→仙台城へ

→会津若松城へ

→盛岡城へ

→伊達政宗の銅像へ

 

   

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